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文章もろくに綴れないのに、あまり読書も好きではないのに、桐谷は高校入学間もなく、ガラにもなく文学部に入部届けを出した。同じ中学出身の鈴木美和先輩が文学部に籍をおいていた、それだけが理由だった。
先輩が高校を卒業する時に、桐谷は思いきって告白した。
しかし、彼女は優しく笑ってから
「ごめんね」
と言っただけだった。
直接話をしたのは、十年前のその時が最後となった。
まだ春浅き頃、文学部のOB会に誘われた。その時、一学年上の当時の部長から、美和が少し前に亡くなったと聞いたのだった。
病気だったらしいけど……と元部長も途方にくれたようなもの言いだった。
「家族葬で、どこにも連絡はしなかったんだって。俺もOB会の連絡をして初めて、知ったんだよ」
もう一度だけ会いたい、そう思っていたのではないのか?
そしてこの場が、そう思い願う人と会える、類まれなる時間と場所だったのでは?
「あの……お母さん」
母と別れた、中一の時の口調になぜか戻ってしまっていた。桐谷は言葉を選びながら、目の前の人に告げる。
「ホントは、もしかしたら会いたい人が別にいたかも知れない。それにさ、お母さんにまたこうして会えたの、ホントにうれしいんだ、うれしいんだけど……何言っていいのか」
「わかるわー」
生前の母、そのまんまの言い方だった。
「なんかね、アンタまあ、私がいなくなってからずっとお年頃だったからさ、好きな女の子とかいたかもじゃん? 片想いとか? その後会えずじまいとか? でもそれって、生きてても会えるもんでもないしねー」
「ああ……うん」
その女性はすでに、この世にいないのです、だからここで会えるかも、五分しかないというその時間の中で。
そして会えたらぜひ聞きたいんです。
あの時、なぜ、「ごめんね」だけだったんですか? と。
「ま、アンタが元気で暮らしていたら別に後は何でもいいよ」
豪快に、母は笑ってから、その姿は徐々に淡い光とともに消えていった。
呆然としたふうで、人びとがまた、電車に帰っていく。
誰もが、誰かと出あっていたようだった。
もともと静かに止まっていた電車の端々まで、更なる静寂が覆いかぶさっていた。
急に、長く転がるような笛がホームいっぱいに鳴り響いた。
アナウンスが短く告げる。
「電車、ドアが閉まります、ご注意ください」
全ての電源が生き返ったかのように、鋭い空気の音とともにドアがしまり、動力が蘇った。
滑り出しは静かに、そして、一度大きな音とともに左右に揺れ、電車は動き出す。
カップルはすっかりおとなしくなっていた。手を軽くつないだままそれぞれの想いを反すうするかのように黙って前を見つめている。
桐谷の脇に、いつの間にか山本は目をさまし、ちゃんと姿勢を正して座っていた。
駅の明かりも見えなくなってから、山本が前をみたまま聞いてきた。
「どうだった、青峰駅」
「……」
桐谷は改めて、山本の顔をみた。アルコールがめいっぱい残って、顔はまだ真っ赤だったが、山本の表情はいたって真面目だった。
「なんか……」
急に、言葉に詰まり桐谷は下を向く。
わずかな時だとは言え、もっともっと、話したいことはあった。
お母さん、ずっと会いたいと思っていたのは事実だ。別れてからいろんなことがあった、それを時間の許す限り、話せばよかった。
ウザいという態度も取ったけど、本当に感謝していた、それも伝えたかった。それに、愛していた、今でも愛している、と。しかし
「なんか、言いたくても言えないこと、ってたくさんあるんですよね」
「かもな」
山本は向き合う車窓の暗がりに気を取られたふうで、そのまま前をみて言った。
「おととしだったか、俺も同じことがあってさ」
一昨年の夏の終電で、やはり青峰駅で同じようなアナウンスがあったのだと言う。
その時も、酔っ払っていた。
そしてその時も、乗客は少なかった。
降りた人もいたし、今夜の山本のように降りない人もいた。
「オレはね、」山本は静かに告げた。
「ずっとずっと、親父のことを気にかけていた」
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