8人が本棚に入れています
本棚に追加
③
金曜日、深夜、大学の休憩スペース。いつものように師匠と将棋を指す。
「君は、将棋の団体戦に出たことはあるかい。」
今日の師匠は玉頭位取りを指していた。自分の囲いを中盤の段階で圧迫されているというのは気分のいいものではない。そう思って、せめて堅い囲いを築こうと美濃囲いを穴熊に発展させる香上がりをした直後に突然の質問。まだ互角の局面のはずだが、師匠にとっては質問をする余裕があるほどの差がついているという事だろうか。
「中学の時に一度だけ出たことがありますよ。大阪の大会ですが。」
僕が中学生の時、将棋友達が、3月の大阪の大会に一緒に出ようと言ってきたのだ。その大会は、五人一チームの団体戦であった。何とか人数を集め、大会に出場することができた。結果は、一勝もできないというものだったが、とても楽しかったことを覚えている。
「そうかい。」
そう言って、師匠は黙りこんだ。いつもながら、師匠は何を考えているのかよく分からなかった。
そのまま将棋を続ける。穴熊を完成させ、一息ついた時、もう少しこの話題を続けてみたいという感情が沸き上がった。前のような気まぐれではない。もしかしたら、師匠のことが少しでもつかめるんじゃないかと思ったからだ。
「師匠は、将棋の団体戦に出ようとは思わないんですか。」
今まで、師匠から将棋の大会に出たという話は聞いたことがない。ましてや、団体戦の話など言うまでもない。
師匠はちらっと僕を見た後、少し考える仕草をした。しばらくして、盤上の歩を一つ進め、僕の角頭の歩にぶつける。
「興味がないわけじゃないよ。団体戦には、私の知らない面白さがあるだろうからね。ただ、団体戦もだけど、一般の大会に私が出るのは、何かずるい気がしてね。気が乗らないのさ。」
師匠はいつものような穏やかな表情で答える。その答えは、確かに納得のいくものだった。師匠が大会に出ていることを、よく思わない人も中には入るだろう。ただ、こんなに将棋を愛している人が大会に出ることをはばかってしまうということは、とても悲しい事のように思えた。そして、この穏やかな表情は、作り物なのではないかと、少し疑ってしまった。師匠に限ってそんなことは無いのだろうけれど。
「そうですか。」
それだけ答え、将棋盤に集中する。今更ながら、あまり続けるべき話題ではなかったと少し後悔していた。
師匠がぶつけてきた歩を取る。それを待っていましたと言わんばかりに、師匠は持ち駒の歩を僕の角の頭に打つ。盤面が先ほどよりも複雑化してきた。
ちらっと師匠を見る。先ほどの穏やかな表情はどこへ行ったのか、今は何か考え事をしている表情になっていた。ただ、将棋盤に向かってではなく、どこか遠くを見ながらその表情をしていた。おそらく、今の局面以外のことを考えているのだろう。
ふと、師匠と目が合う。少し恥ずかしくなり、盤上に目を落とす。少し考えた後、角を自陣へと引く。
「少し考えたのだけれど。」
静かに師匠が口を開いた。
「なんですか。」
いつものように、頭の中で駒を動かしながら、ほんの少しの意識を師匠に向ける。この複雑な局面で間違えることは、今日の将棋の負けを意味しているように思えた。ただ、次の師匠の言葉に、僕の意識は全て師匠へと持っていかれた。
「君は、自分より強い人と戦ってみたいかい。」
最初のコメントを投稿しよう!