8人が本棚に入れています
本棚に追加
①
本のページをめくる。本の中には、将棋の一盤面が描かれ、そこに至るまでの手順が書かれている。手順を目で追いながら、頭の中で駒を進めていく。そして、解説にも目を通す。
将棋をある程度続けている人なら、誰でも一度は行う手順。それを自分は今日まで何度続けてきただろう。百か、二百か、いや、意外ともっと多いのかもしれない。
またページをめくる。隣の自動販売機から漏れ出る電気音が、少し邪魔に感じてきた。それだけ集中しているという事だろう。本を一度閉じる。すっと立ち上がり、自動販売機から少し離れた椅子に腰をおろす。さて、続きを読もうと本を開いた時、カツカツと靴音が聞こえてきた。その音を合図に、読んでいた本を鞄にしまう。
姿を現したのは、いかにも大人という女性だ。すこし緑がかったワンピースは、その女性の整った容姿によく似合っている。女性が歩くたび、つやつやとした長い黒髪がさらさらと揺れる。
「こんばんは、師匠。」
「こんばんは。」
師匠は僕が座る椅子から二つ離れた椅子に腰をおろす。そして、鞄の中から折りたたみ将棋盤と駒を取り出し、僕と師匠の間の椅子に置いた。僕は将棋盤を広げ、駒を箱から将棋盤の上に広げた。ヂャラヂャラと音が響く。深夜12時の大学内の休憩スペースはシンと静まりかえっている。普段はあまり気にならない駒の音が、一際大きく感じるのはそのせいだろう。ただ、僕は、この時間、この場所に響く駒音は、それほど嫌いではなかった。
お互いに駒を並べ始める。ちらっと師匠の顔を見ると、いつもより穏やかな表情をしていた。師匠は基本、穏やかな表情をしていることが多いが、今日は特に表情が柔らかな感じがする。
「何か、いいことでもあったんですか?」
すこし、興味があったので、聞いてみる。師匠は僕の顔を見ると、にこっと微笑んだ。
「研究が一段落したからね。」
こういうと、師匠は再び盤上に顔を向け駒を並べる。それはなによりです、と返し、自分も駒を並べた。
駒を並べ終えると、師匠は歩を五枚取り、振り駒をする。と金が三枚。僕が先手だ。
どちらからともなく姿勢を正す。横並びの椅子に座っているから、お互い上半身だけを相手に向けているだけだ。しかし、それでも将棋の作法は守らなければならない。
「「よろしくおねがいします。」」
一礼をして、僕は歩に手をかけた。
最初のコメントを投稿しよう!