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扇屋(1)※
陽は地平に落ちかかり、空から薄闇の帳が降りてくる。
軒先に連なる釣り燈篭に一つ一つ火が入れられ、やわらかい灯りが街のあちこちに浮かび上がる。花街がその瞼をもたげ、目覚める瞬間だ。
繰り返される、熟み爛れた夜のはじまりの合図であっても、梟は、生き物のように街に灯りが息づく様を見るのが好きだった。
「にいさん、いつまでも眺めてないで、お仕事お願いしますよ」
「わかっている」
階下から声を掛けられ、女たちが上がる前の二階の飾り窓から身を翻した。
花街一の大店、扇屋の居候にして用心棒。それが梟の身の上だ。
店の主人、椿に拾われてこの街に来た三年前、梟のしなやかな細身と煌めく白金の髪に縁取られた繊細な美貌に、口さがない連中は、椿がお稚児さんを連れ込んだのだと噂し合った。当時梟は二十二歳、稚児にしてはとうが立ちすぎだろうと、花街の人間の思考に心底呆れたものだ。馬鹿馬鹿しくて否定する気にもなれず、椿も何も言わなかったが、梟の剣の腕前が証明されるにつれ、いつのまにかそんな噂も消えてなくなった。
店の玄関を真っ直ぐ進んだ廊下の突き当たり、中庭に面した物置部屋が梟の待機場所だ。扉を開いてするりと身を隠し床に腰を落ち着けると、着飾った女たちの白粉と香の匂い、さざめく笑い声と楽の音が、いつものように薄暗い部屋に満ちていく。
(今宵も何事も起こらなければいいが)
何の諍いもない、安寧とした夜は喜ばしい。けれど何の面倒も起こらない夜は、ただひたすらに長く、店内の様子に気を配る梟の研ぎ澄まされた神経を、いたずらに苛立たせる。無駄に消耗する夜を思い、梟はため息をついた。
それに呼応するようにすぅっと音も立てずに扉が開き、光を背にした影が梟の上に差し掛かった。
「夜はこれからだっていうのに、この子は廊下にまで聞こえるような吐息を零して。梟の仕事は店と女たちを守ることであって、悩ましい吐息で男を誘うことじゃないんだよ」
「椿…いつも言っているだろう、そういう冗談は」
「冗談で済ませるには、おまえの美貌は物騒なんだってこと、いつになったら理解してくれるのかねえ」
ほとほと困ったという顔をしてみせながらも、目が笑っている。洒落者の優男という評判に相応しく優雅に長煙管を手にした扇屋の主は、ぷかぁと呑気に煙を吐き出した。
「こんなところに閉じ込めて悪いと思っているけどね。おまえを人の目に付くところに置いておくと、女たちの商売は上がったりで私としても困るんだよ」
「この部屋に不満があるわけではない。もちろんこの仕事にも。ただ…夜は長すぎる」
「夜が長いか短いか、それは梟次第だよ。少なくとも私は夜を持て余したことはない」
そう言って椿は床に座り込んだままの梟に近づき、背を屈めてその細い顎を掬い上げると、ゆったり唇を重ねた。煙草の苦味の残る舌に口腔をまさぐられ、その穏やかさに梟は目を閉じる。
性感を煽り立てるものではない静謐な口づけは、梟の無聊を慰めるためだけのものだ。
外の世界では言葉を尽くすが、花街の人間はこうして親しい人を労わるのだと教えられたのは三年前。それまでの特殊な環境下での生活のせいで、まったくの無垢だった梟に口づけを教え、自分を慰めることを教えたのは椿だった。
「困った子だね、この分ではしばらく慰めていないんだろう?」
唇を離して、額に掛かった髪を払いながら椿はしんなりと眉をひそめた。
「不自由は感じていない」
「それが不自然なのだと、何度教えたら覚えるんだい。性欲は人の持つ正常な衝動だ。罪悪感を抱くのは間違いなんだよ」
立ち上がって扉を閉め、振り返った椿が確かな足取りで近づいてくる。その意図に気づき、座ったまま後退りながら、梟は非難めいた声で鋭く抗議した。
「椿!店は開いてるんだぞ」
「開いたばかりさ、梟が出なけりゃならないような無粋な客が来るには、まだ随分と早い。こんな退屈そうな顔をした子を放っておけるほど、私は冷たい人間じゃないんでねえ」
(放っておいてくれていいのに…)
心の底からそう思うけれど、脱力した膝を割られ壁際に追い詰められると、もう逃げ場はない。梟の体に初めて触れた椿の手にも口にも、この三年間で慣らされすぎている。これが梟の体を案じての行為と知っているから、積極的に抵抗する気にもなれなかった。
椿は、梟の羞恥と困惑の象徴を慰めることはしても、梟の体を使って自分の快楽を得ようとしたことは一度もない。慣れと信頼、そして諦めが、いつまでたっても認めることは難しい欲望を、解放者へと委ねさせた。
彼の言う通り、性の衝動に冒涜を犯したような罪悪感を感じる必要など、梟にはない。それは三年前に失った。
「……ふっ、ぅん」
先端を咥られ、喉の奥まで迎え入れられ、かと思うと熱い舌に巻きつかれる。双珠をやわやわと揉み込まれ、弱い場所を思うさま嬲られて知らず腰が弾んだ。まったく熱を溜めていなかったそこが、瞬く間に育っていく。
心とは裏腹の体の反応から目を背けるように、梟は懸命に唇を引き結んだ。
「んんっ……くぅ」
蕩けるような口腔と巧みな舌づかいに、久しぶりの愛撫に、堪える間もなく椿の口に放ってしまう。澄んだ青灰色の瞳が快楽にとろりと潤む。両足の間に割り込んだ椿の肩へ、縋るように添えられていた両手が、だらりと両脇に垂れた。
力を失った梟を丁寧に舌で清め、乱した着衣を整えてやると、顔を上げた椿は「ごちそうさま」と片目を瞑った。
「こんなに濃くなるまで耐えなくてもいいだろうに、頑固な子だねえ」
どれほど自慰をしていなかったのか、その舌で確かめた椿の言葉は率直で生々しい。焦らすこともなくするりと導かれ与えられた頂きと、そこからの失墜感に肩で息をしていた梟は、羞恥のあまりぎくしゃくと身を硬くした。
その頑さをほぐすように、もしくは思い知らせるように、
「禁欲も過ぎると痛々しいだけだよ。おまえはもう、戒律に縛られた神の騎士ではないのに」
それまでの甘やかさを消し去った声音で、娼館の主はその用心棒にちくりと細い、けれど深い針を刺して物置部屋を出て行った。
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