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「その、ありがとう。あんなものがあるなんて知らなかった」
「お母さまに紹介した店にアンドロイド用のコーナーがあるの。カレーみたいに濃い香りはつけやすいし、今は固形オイルだってあるわ。時代錯誤の一斗缶じゃなくて補助金使ってもっと美味しいのを買ってあげなさい。私は青汁味が好きよ」
「おぇっ……じゃなくて、そうするよ。お前なんでそんな詳しいんだ?」
「ここでいいわ」
彼女は駅前の月極駐車場で立ち止まった。すぐに黒塗りの高級車が滑り込んでくる。ヒクと口角が反応した。土足で家に上がってきた時にも思ったが、彼女は一体どこのお嬢様なんだろう。
「両親がアンドロイド小児科の専門医なの。夏休みが終われば私も両親のいるアメリカへ行くつもり」
「は?」
「だからね、少しは家族の時間を作れそうよ。こんな私を1人の存在として見てくれる、樹君やご家族みたいな人達がこの世にはちゃんといるんだもの。渡米なんて絶望でしかなかったけど、今は少し歩み寄ろうと思ってる。樹君の言葉、少し信じてみたくなった」
彼女は美術品みたいな綺麗な手で俺の手を取る。
「最後に夏の思い出をありがとう。樹君の夏野菜カレー、食べられなかったのは残念だけど、久々に誰かと夕食を食べたわ。美味しいのね。知らなかった」
「また食べに来ればいい。うちは第3金曜がカレーの日なんだ。母さんも茜も、絢斗だってまた来て欲しいって言ってただろ?」
「樹君は?」
頬を撫でた生温い風に誘われて、顔を上げる。
彼女は俺をからかうように笑っていた。夕陽と彼女は息を飲むような美しさだ。誰が彼女をアンドロイドだって思うだろう。そもそも人だとかアンドロイドだとか、そういう風に分けて見ていることすら馬鹿らしく思える。
「蟻の観察なんて趣味に付き合えるやつ、そうそういないぞ。たぶん、広大なアメリカでもな」
「えぇ、私もそう思う」
そうしてずるい彼女は、さよならもまたねも言わずに去って行った。暫く忘れられそうにない、とっておきの笑顔だけを残して。
もう一生会わないかもしれない。
それでも俺は、この胸の痛みにも意味があると思いたかった。
だって彼女に出会わなければ
サヨナラの後の夕陽が苦しいほど綺麗だってことも、知らなかったんだから。
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