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「ちょっとぉ、まってぇ!」
その気の抜けた声に、喉の奥がヒュッと締まった。蟻の行列の上を女の子が駆けていく。その赤いシューズが列のすぐ際へぞんざいに振り下ろされた。間一髪で生き延びた蟻達は一瞬散開したものの、すぐに仕事を再開する。
彼女は女の子に注意すらしなかった。微動だにせず、ただその生き死にの行方を見ていたのだ。
「運命って、大きな川みたいじゃない」
突然語り出した彼女の声で我に返る。たかが蟻。されど蟻。心臓は嫌な脈打ち方をしている。
なんて悪趣味な遊びなんだ。
「どうやったって流れは止まらないのよ。一方向に流れていく。そもそも変えちゃいけないわ。必ず意味があるもの」
「だからって見殺しにするのか」
「樹君なら助けるの?」
「そりゃ……目の前で潰れたら可哀想だろ」
「へぇ、そうやって気紛れで助けるの。お優しいのね。この、偽善野郎」
ハッと彼女を見る。彼女もまた俺を見ていた。俺は憤慨するどころか、ただただ驚いていた。この鉄仮面はこんなにも苛立った、人間らしい声を出せるんだと。
「ごめんなさい、少し言葉が汚かったわ」
「俺たちは、なんの話をしていたっけ?」
「蟻の話よ」
そうだ、蟻の話だ。
それでも彼女の発言の一つ一つが、俺の沼をやたらと刺激し始める。
「たとえ無残に踏み殺されたとしても、それが運命なら受け入れるべきなのよ。踏んだ子が次は下をよく見ようと思うかもしれない。生き残った蟻がもっと安全な場所へ行こうと思うかもしれない。
もしかしたら……疲れきって死にたいって思ってたかもしれないわ。なのに、人間なんかの、気紛れで」
口をつぐんだ彼女は、またじっと蟻の行く末を見始めた。
彼女の言い分は分かる。神でもない人間なんぞが、一時の気紛れで虫一匹の運命を狂わすのはどうかと言いたいのだ。蟻の気も知らず、傲慢だと。
なんだよそれ。じゃあ俺はどうすればよかったんだ。
あんな綺麗な顔した絢斗を、
無惨な傷で覆われた絢斗を、
飲酒運転なんて身勝手に巻き込まれた絢斗を、
これも運命だと納得して見殺しにすればよかったのか?
そしたら絢斗は、この見るからに不味そうな液体オイルを毎日飲む必要もなかった。アンドロイドだって奇異の目で見られたり、仲間外れにされたりすることもなかった。
心と体のバランスを崩して、本当にただの機械みたいに無表情になることだってなかったんだ。
そう言いたいのか、彼女は。
あぁ、頭がイカれてきた。俺たちは一体なんの話をしていたんだっけ。
この暑さはまずいな。相当まずい。あんなにずっと避けてきたのに。
沼に足が、ずぶずぶじゃないか。
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