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第二話/七.
――二〇一九年六月二十三日(日)
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さて、今日は煌星くんのお宅に行く日。いつもより少しだけ緊張した面持ちで、所長と亜澄くんと私は三〇二の前に立っていた。
「私は平野くんの家で聞いてるから」
「はい」
私には小さなマイクが渡される。襟裏に隠すようにセットした。肌色に近い色のイヤホンも、こっそり。
ペン型の隠しカメラも胸ポケットに入れた。
オートロックを解除してくれた大和くんのお母さん、真子さんは不安げな表情だ。
「本当に大丈夫ですか?」
「がんばります」
「じゃ、はじめよう」
「はい」
コクリとうなずき、インターホンを押す。
『はい』
「こんにちは、家庭教師派遣会社のサブリースから参りました、外鳩と申します」
『ああ……お待ちください』
「はい」
通話が切れる。真子さんが事前に話を通してくれていて良かった。
「……外鳩さん」
「はい?」
「昨日は、怒鳴り声はなかったんです。だから……」
「……ちゃんとお話しますから」
本当はもう通報しなくても、心配しなくてもいいのかもしれない。という真子さんが言いたいであろうことを察してうなずいたところで、ガチャ、と鍵のあく音がした。
「お待たせしました……、あら?」
「じゃあ亜澄くん、大和くんのことよろしくね」
「うっす!」
「あの方達は?」
「同僚と上司なんです、今日はこの三階の担当なので!」
「そうなの。……どうぞ、準備はできてます」
とりあえず、部屋には入れそうだ。
私は意を決して足を踏み入れた。
***
「煌星くん、こんにちはー」
「こんにちは」
リビングルームにいた煌星くんが頭を下げる。
前に会ったような顔だ。疲れてはないみたい。
私はイスに座りながら尋ねる。
「今日は何の科目をやりたいんだっけ?」
「国語。よく分からないんです」
「え? 漢字が?」
「それもだけど、この……筆者の気持ちを答えなさいっていうやつ」
「…………、煌星くん。それね、筆者っていうより、問題を作った人の気持ちにならないといけないのよ」
筆者ですら間違うこともあるという問題パターン。
もっと正確にいえば問題を作った人が登場人物の心情をどう解釈したかを考える必要がある。小学生に求めることじゃない気がする。
「問題を作った人の? 筆者のって書いてあるのに?」
「そう。なんていうのか、お決まりのパターンなの。微妙な差を出してどれが正解か迷うように作られてて……」
まるで、今日の私みたいに。
美桜奈さんがどんな状態なのか、見るだけでは分からない。
「……煌星くんのお母さん」
「え……? はい?」
「よかったら、お母さんも一緒にやってみません?」
「私が?」
「はい!」
何を言い出すの、という目をしている。
「さぁさぁ。煌星くんの隣に座ってください」
「え、ええ……でも、私、分からないから」
「だから一緒に考えるんです」
「けれど、受験会場では一緒にいられないじゃない」
座りながらも面倒くさそうな顔をする。勝手にやってて、とでもいいたげに。
「そうですね。送り迎えはできても、隣に並んで教えてあげることができるのは、勉強する時だけですもんね」
「……そうよ。それが何?」
「私は、ですが、大変なのは勉強する煌星くんだけじゃないと思ってます。勉強できる環境を作るのって、考えるより大変で、難しいですよね」
「……、ええ。そうなのよ。それなのに、この子、塾での成績が悪くて……そんなんじゃ、いい学校にも行けないってさんざん言ってきたの」
「美桜奈さん、でしたね。美桜奈さんは中学受験しましたか?」
「いいえ。だから、この子には中学受験させて、中高一貫校に入れて、いい大学に行ってほしいの」
親が、自分の夢や、やりたかったことを子どもに託すというのは、よく聞く話。
その道が、その子に合っているなら、いいのだけれど。
「美桜奈さん。あなたが思うより、煌星くんはずっと、がんばっています。大和くんから聞きました、学校では成績がトップなんだとか」
「塾で底辺なら意味ないのよ!」
「意味がなければ何してもいいというんですか?」
「……何が仰っしゃりたいの?」
「そこの壁、傷跡があるように見えるのですが。最近、何かぶつけました?」
「あなた……、外鳩さんよね。本当はどんな用事でここに来たの?」
答えるか、答えまいか。
『奏、言うな。家庭教師のフリを続けろ』
イヤホンから所長の指示が聞こえる。
「家庭教師なんかじゃないんでしょ?」
正直に話しても話さなくても、彼女が怒るのは目に見えてる。ならば。
「――大橋探偵事務所の職員です。楢山美桜奈さん」
『奏!』
うるさいな、もう。私は左耳にはめていたイヤホンを抜いた。
「探偵事務所? 警察じゃないの?」
「警察のほうが良かったですか?」
「変なこと言わないで。分かってるわ、どうせ隣の人が電話したんでしょう」
「……はい」
煌星くんが緊張した目で私を見る。
三〇一では、きっと、真子さんや大和くん、亜澄くんに所長だって。
私はハッキリと言った。
「阿須さんから聞きました」
美桜奈さんがキョトンとした顔をする。
「……阿須?」
「はい。三〇三の」
「犬を飼ってるあの?」
「…………はい」
阿須さーん、みんなにバレてるよ!!
「心配したみたいですよ。ほとんど毎日、その……熱心なのが分かって」
「虐待してると思われたってことね」
「別にそうとは……」
「……そう思われた方が楽なのかもしれない」
本当にそうなのかな。投げやりになってない?
けど、それを真正面から言うことはできない。
「でも、いけないことなの? 私は、息子により良い人生を歩かせたいと思ってる。だから受験しようって去年決めて、塾に通わせはじめた。そしたら……、こうなって」
「楢山さん。私は、あくまでも相談を受けただけの人間で、なんの権限もありません。だから、言えるのは私の考えです」
「……若いあなたは、どう思うの?」
「休むべきだと思います。煌星くんも、お母さまも」
「どうやって休めっていうのよ!」
「何もしないんです」
「……は?」
私は笑顔を見せた。場の空気を和らげるために。
「何もせず、天井を見るだけだったり、テレビを見るだけだったり。何もしない、ということをしてみるんです。あと、話を聞いてもらう、とか」
「誰に話を聞いてもらうっていうのよ、誰も私のことなんて分からないのよ!」
「それは、探してみないと」
ママ友、というか、お友達がいれば、こういうときいいんだけど。作るのは難しい。だから、まずは気軽に話せる両隣から。
「例えば、阿須さんは――阿須悠太さんは、中学受験の経験があるそうです。愚痴をこぼしたら理解してくれると思いますよ。あと、平野さん。大和くんも、真子さんも、お話を聞いてくれると思いますよ。あなたが、話そうと思うなら」
そう、ちょっと、疲れてるだけ。こなさなければならない日々、思い通りにならないこと。フラストレーションがたまって、こうやって表に出てきてしまっている。
「私……、避けられてるのよ」
「美桜奈さんが睨んじゃうからですよ。怖かったら逃げるのは当然です」
「けど、これまでこんなふうに誰かに言われたことなんてなかった。本当はみんな私のこと頭のおかしい人だと思ってるに違いないわ!」
「本当は、みんなずっと前から助けたかったんですよ。煌星くんのことも、あなたのことも。警察には言えないけど、どうにかしたかった。だから、たまたま知った大橋探偵事務所にSOSをくれたんです」
携帯電話を取り出し、手に持ちながら、美桜奈さんの方を見る。
「実は、お隣の大和くんのところに、さっき一緒にいた同僚や上司がいまして。電話かけてみるので、まずは、平野さんたちとお話してみませんか?」
「……真子さんと……?」
「はい。真子さんにもお話を聞きました。阿須さん同様、心配してましたよ。一昨日は煌星くんが初めて泣いたのを聞いたから、余計に」
「……話して、みます」
「はい!」
煌星くんがおもむろに立ち上がったかと思うと、電話の子機らしいものを手に取った。
「煌星くん?」
「僕は大和くんと話す」
「……そう」
お隣さんで親友。電話番号を知らないわけないのよね。
だから、話そうと思えば、いつでも話せたはずだった。そんなことを忘れてしまうくらい、目の前のことにとらわれすぎていたから。
「あ、もしもし、亜澄くん? 聞いてたでしょ、真子さんに代わってくれる? ええ、よろしく。――美桜奈さん、お電話、どうぞ」
「はい」
携帯電話を渡す。美桜奈さんは遠慮がちに受け取ると、通話口でゆっくりと口を開いた。
「……真子さん。ごめんなさい、迷惑かけて……え?」
話している内容までは私には分からない。亜澄くんたちに後で教えてもらおう。
「……ええ。ちょっと、がんばりすぎていたみたい。息抜きのやり方、覚えなきゃね。なんでも真面目にやっちゃうの、私」
ふふ、と美桜奈さんが微笑む。
彼女が、愛想笑いではなく、落ち着いて笑う光景は初めて見た。
視線を横にずらし、煌星くんを見る。煌星くんもまた、笑ってた。
「さてと」
イヤホンを耳に戻す。そして、マイクに向かって一言。
「所長。お待たせしました、任務完了です」
イヤホンの向こうから、息を漏らす声が聞こえる。所長、笑ったみたい。
『ったく、自由すぎるだろ。奏』
「すみません。けれど、求めてた終わり方、じゃないですか?」
許してほしい、という思いがにじみ出ていたのを感じてくれたようで、所長がうなずく。
『そうだな。止められる段階で良かった。水秦には私から説明しておこう』
「お願いします」
美桜奈さん。煌星くん。味方は、案外、近くにいるものなのよ。
【第二話 終わり】
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