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「…………ううううう」
狭い事務室に、盛大に鼻をすする音が鳴り響いていた。発生源はもちろん、現在再生中のメッセージを宛てられた本人だ。
「美音ちゃん、また聞いてるの? 海渡くんのメッセージ」
「聞いてますよー! もう何度だって聞きますよわたし、だって今のところほぼ唯一の肉声音源じゃないですかぁ!」
「そりゃまあそうだけど……にしても、すごい機械が出来たのねぇ」
しきりに目元をこする彼女にハンカチを差し出しつつ、席を立った相手がひょいと覗き込んでくる。
その視線の先に、見慣れない装置があった。大きさは外付けハードディスク程度だが、集音マイクと解析デバイスがくっついており、そのあちこちが明るい翠色に点滅を繰り返している。先のボイスメッセージはその中から聞こえていた。
「動物の鳴き声を解析して、人間の言葉に翻訳するんでしょ? で、その実験の第一号に選ばれたのが海渡くん、てわけだ」
「そうなんです。どうしても誤訳が発生するので、出来るだけ齟齬が少なくなるように知能の高い種が選ばれたらしくて」
「なるほど。そりゃ水族館に白羽の矢が立つわけだ」
ここは建物の規模こそ中程度だが、国内でも屈指の海洋哺乳類の飼育数を誇っている。解析の精度を上げるための実験サンプルには事欠かない。
「他にインタビューした子たちも、大抵トレーナーさんのお話をしてくれてるらしいですよ。やっぱり長く一緒にいると、あっちにも愛情が伝わるんですねぇ」
「そうねぇ、もうみんなデレデレよね。微笑ましいったらありゃしない」
ただ、と、トレーナーとしての先輩でもある彼女は内心呟く。
(あんなプロポーズみたいな熱いメッセージをよこしたのは、君んとこの彼だけだけど)
えへへ、と笑み崩れている美音は、そこのところに気付いているのかいないのか。いや、確実に気づいていないだろうけど。まあ本人たちが幸せならいいか。
「さ、今日もそろそろトレーニングの時間でしょ? 彼氏んとこにいってらっしゃい」
「はーい!」
行ってきます! と、すでにウェットスーツに着替えていた美音が元気に走っていく。向かう先は屋外、来館者にショーを見てもらうための巨大プールだ。
「海渡ー! 来たよーっ」
きゅーっ、と可愛らしい鳴き声がして、遠くから一直線に泳いでくる影がある。淡い灰色の肌にピンと張った背びれ、つぶらな瞳を持つ若いイルカだ。その尾びれには大きな傷跡があり、半ばからがシリコン製の人工尾になっていた。
国内でも何度か前例はあったし、成功例もちゃんとある手術だ。ただ、生き物は各々で違うから、必ずうまくいくとは限らない。保護してからずっとそばについて見守ってきた美音にとって、これでもう大丈夫とお墨付きが出るまでは生きた心地がしない日々だった。
ざぱっ、と、元気よくプールサイドに上半身を乗り上げた海渡をよしよしと撫でてやる。肌のツヤも目の輝きも、今日も絶好調だよと伝えてくれる。こうやって一緒に過ごせることが、嬉しくてたまらない。だから、
「ね、海渡」
『きゅ?』
「ホント、五分じゃ全然足りないね。これからもずっと一緒にいてね、大好きだよ!」
『きゅうっ!』
まるで相づちのようなタイミングで鳴いた海渡に、美音の明るい笑い声がプールサイドに響き渡った。
了
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