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「ありがとうございます、先生!私はすっかりあの頃の出来事を忘れきっていました」
診察室から出てきた老人は、震えた声を上げながら、人目もはばからずに号泣している。
「確かにそこにはあったのです。過去に置いてきてしまった亡き妻の姿が。ああ、本当に思い出させてくれて感謝します」
青年はその歓喜の演説を煩わしそうに聴いていた。生い先の短い老人はこれだからいけない。後がつかえているのだ。未来ある若者にとって待たされることが、どれだけ不愉快なのかを思い出した方が、よっぽど有意義だったのではないか。そもそも先生ではなく、科学の進歩の方に感謝するのが適切だろう。
「次にお待ちのお客様」
さきほどの受付の声がした。正面にあったモニターに青年の持つ受付番号が表示される。やっと自分の番が回ってきたようだ。
案内された診察室、といっても医師が座る白のデスクに、患者用の椅子があって、問診用のベットがあるという類のものではない。もっとシンプルだ。
つまり部屋の中央には一台のタマゴ型のカプセルがあり、他にはなにもない。だがこうして近くで、実物の過去回想マシンを眺めてみると、さきほど動画で目にしたものよりも、一回り大きく感じる。
「ではこの装置に入ってリラックスしてください」
看護師に指示された通りに、銀色の脳波測定ヘルメットを頭に被って中に入った。クッション状の背もたれに体を預けると、なんとも気持ちがいい。
装置の外側から、無防備な青年の腕や足に、吸盤の付いた細いケーブル線をペタペタと貼られると、仕上げに真っ黒なゴーグルをかけられ、何も見えなくなってしまう。
「あとは自動音声で説明が流れますので、それに従って操作をしてください。ほら、あなたたち行くわよ」
看護師に連れられて、助手のサルたちが次々と部屋を出ていく足音が微かに聞こえた。その後、カプセルの蓋が完全に閉じたようで、左右に備え付けられたスピーカーから『1分で分かる電子マニュアル』が流れ始めた。
「本日は当設備をご利用いただきありがとうございます。このサービスはお客様の――」
機械的なアナウンスが耳を通り抜ける中、ゴーグルをつけられて初めて青年は、自分が久々にゆったりと瞼を閉じたような気がした。いつも携帯の画面ばかりみているものだから、暗闇を体験するのはいつ以来だろう。
まだ回想システムが作動していないにもかかわらず、彼の脳裏には、昔の記憶が顔を覗かせようとしていた。友達と遊び惚けていた夏休み、退屈さとは無縁だった放課後、大学受験を疎かにしても打ち込んでいたギターの練習。
だがどれもこれも下らない思い出だ。もしあの時間にもっと勉強していれば……。まあいい、何が最も大事だったのかは今から分かることだ。
操作手順の通りに右手のスイッチを押した。青年の脳内には、これまでの価値のある人生の縮図が、映し出されようとする。
しかし今の彼にとっての思い出に値する過去は、走馬燈より一瞬だった。
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