車中にて

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車中にて

    「へい、お嬢さん。あんたは、どこまで行くのかね?」  下衆な響きのガラガラ声が耳に入って、ふと、私は顔を上げた。  見れば、斜め前に座った黒衣の女性。彼女が、背後の席の男にナンパされているところだった。  ベルリン行きの列車の中。  乗客はそれぞれ、しっかりとした目的があって乗り込んでいるのだろう。忙しそうな雰囲気の者ばかり。  私だって、新しい職場へと向かう途中であり、ずっと下を向いて書類とにらめっこ状態だった。同行者――私の上司となる男――と談話する余裕もなかったくらいだから、こんな美しい女性が目の前に座っていることなど、今の今まで、全く気づいていなかった。  あらためて、彼女を観察する。  黒一色の、しっとりした衣服を身にまとい、肩より少し長い程度の金髪を、同じく黒のアクセサリーで後方へまとめていた。カチューシャなのかヘアバンドなのか、女性の装身具に疎い私にはわからないが……。小さなリボン状の装飾が施されているのが、かわいらしく感じられる。  歳は私と同じくらいだろうか。よく見れば美人というほどの器量ではないかもしれない。だが、ニコリともしない表情と相まって、独特の魅力ある雰囲気を漂わせていた。  そんな彼女が、 「なんだい、あんたも俺を無視するのかい……」  背後の男に、鬱陶しいほどに声をかけられているのだった。  灰色の服を着た男。  服も帽子も、同じく灰色というだけでなく、どちらも古臭い感じだ。手にしているのは葉巻のようだが、それも最近では見ないタイプのもの。全体的に時代遅れのイメージで、そう思うと、メガネやヒゲまで、流行遅れのスタイルに見えてきた。  そんな男が、わざわざ、自分の席から身を乗り出して、若い婦人をナンパする……。なんとも馬鹿げた光景だった。  その『若い婦人』に視線を戻すと。  目が合ってしまった。いつのまにか、彼女もこちらを見ていたのだ。  やはり、そこに微笑みはない。物憂げな視線、いや、冷たい目つきと言うべきか? それも素敵に見えてしまうのは、私が幾分か彼女に一目惚れしていた、ということかもしれない。  別に私に助けを求めているわけではないだろうが、うるさいナンパ男に対しては、彼女だって鬱陶しく感じているはずだ。そう判断した私は……。 「君、やめたまえ。ご婦人が、困っておられる。いい歳して、恥ずかしくないのか?」  勇気を出して、声を上げた。  瞬間。  車内が、シーンと静まり返った。  そして、黒衣の婦人は……。  初めて、その表情に動きがあった。だが、明らかに悪い方向性だ。「一体この人は何を言い出したのだろう?」と言いたげな、奇人変人を見るような目を私に向けている。 「はっはっは……」  私の横にいた男――ベルリンから私をスカウトに来た軍人――が、大きく笑い出した。そして、まるで慰めるかのように、私の肩をポンと叩く。 「流石だな、君は。それでこそ、我が配下となるに相応しい」  彼の発言の意味が、一瞬、私には理解できなかった。  しかし、続く言葉で、全ての謎は解けた。 「君にも見えるのだろう? あの灰色の影が。しかも、私以上にハッキリと」  そう。  他の乗客たちには――そして黒衣の婦人にも――、この灰色の服の男は、見えていなかったのだ。当然その声も、聞こえていなかった。男の存在を認識できたのは、私と、私の同行者だけ。  男が古臭く思えたのも、彼が昔々の幽霊だったからなのだろう。無理もない。ならば「時代遅れ」と軽蔑した私の方が、失礼だったということになる。  目の前の女性の視線から逃げるように、内心で現実逃避に(ふけ)る私に対して。  同行の軍人が、私への期待の言葉を続けていた。 「その特異な才能を活かして、しっかり頑張ってくれよ。敬愛する総統閣下のためにも、我らオカルト局は、優秀な人材を必要としているからな」  軍服姿の男はこれ見よがしに、特徴的なマークの腕章に指を這わせながら、ニッと笑うのだった。 (「ナンパ男と黒衣の女」完)    
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