4人が本棚に入れています
本棚に追加
/7ページ
「えーと、で。加東ちゃんはアルトホルンって知ってる?」
「いや、あのぅ……? 聞いたことある気もするけど、」
恥ずかしながらも答えると、
「そうかそうか。アルトホルンっていうのはこのユーフォより小さい楽器。多分、加東ちゃんの言ってる楽器だよ」
「へえ、アルトホルン……」
全然知らなかった。そんな名前だったのか。そう感嘆すると同時に自分が情けなかった。自分が四年間もやっていた楽器の正式名称を、今まで知らないで生きていたのだ。ずっとホルンだと思っていた。……アルトホルン、そんな名前、初耳だ。
「加東ちゃんって東小なんだよね」
「はい」
「経験者だよね」
「はい。……え、なんで知ってるんですか」
そんなこと教えたっけ、と瞬間的に記憶を掘り下げてると、
「なんとなくね」
意味ありげに森田は口角を上げる。
「えー、それよりも……加東ちゃん。今からクエスチョンするから正直に答えて?」
「は、はい」
どんなクエスチョンだろう。ちょっと怖い。ごくりと喉が上下する。
「ずばり……」
森田はそこで空間中の酸素を全て取り込むように肺をふくらませると、
「あなたは吹部に入るか、否かッ?」
まるで野球部の部長兼主将みたいな太く通る声で言った。……部長と主将の違いなんて知らないけど。ついでにこの森田サンは体験会の始めで自分は部長だと自己を紹介したけど。
「まあ、吹部は第一候補です」
「他はどんな部活興味あるの?」
「え、えーと……いや、特に」
「ふふっ、よろしい。何も言わなくても優秀な株ね」
「はあ、カブですか」
一瞬白くて丸くて食すほうの野菜を思い浮かべる。
「えーと……で、結果的にはアルトホルンはこの学校にありません。っていうか、どこの学校にもありません」
すごい、サラリと言われた。アルトホルンはありません……。どう反応すればいいのか分からない。悲しいけど、今はそんなに悲しいとは思えない。あー、そっか、ですよねぇ。心の中の自分が素直に頷いてる。
「そうなんですか。……そうですよね、流れ的に」
不思議と、自分はどこか落ち着いていた。ほんと、綺麗なフラグ回収だ。今までフラグという言葉がなんとなくしか分からなかったけど、今なら分かる。森田が前置きで、辛くなるけどいい? と訊いた。ここでフラグが立った。このセリフで辛くなるんだと予想できる。そして、アルトホルンはありません。予想通り、良い事実ではない。ここで、フラグが回収される。
「あれ、ちょっと待って? どこの学校にもないって……?」
会話を思い返して、当然の疑問に詩音はたどり着いた。その質問を待っていたかのように森田は、
「そう。アルトホルンはね、少し特殊なの」
「え、でもうちのブラスバンドにはありましたよ。他の金管バンドも、それで一緒に練習もしたし……」
「それって一日管楽器教室のこと?」
「はい。……あの、森田先輩って経験者ですよね、絶対」
一日管楽器教室とは、市内の小学校にあるバンドがとある学校に集まって一緒に練習する、というものだ。詩音もそこで一日だけの友達を作った。楽器別コースと合奏コースに分かれて自分の技術を磨く。合奏コースに入れるのは六年生だけの特権だ。
「まあ、経験者だよ」
森田は頷くと、
「どこの学校にもないっていうのは、どこの吹奏楽部にもないってこと。吹奏楽だから、中高のことね」
「なんで中学校や高校にはないんですか?」
「詳しくは知らないけど……」
その白い手が立ててあるユーフォの管を掴む。両手で持って、楽器をぐっと自身に引き寄せた。
「なんかかなり昔は吹奏楽部にもあったらしいんだけどね、アルトホルン。どこかのお偉いサンがアルトホルンを廃止したの。他にもフリューゲルホルンとかバリトンとか。なんでかって言われても、私には分からない」
聞いててよく分からなかった。なんでアルトホルンがないのだ、なんで小学校にはあったんだ。ないものにグダグダと文句をぶつける。分かったのは、アルトホルンが学校にないという事実。分からないのは、アルトホルンがない理由と自分が吹奏楽部に入る理由。
「やっぱり分かりません」
全部、分からない。アルトホルンができないなら、吹奏楽に入る意味なんてない。本気でそう思った。
「ごめんね、なんか」
「いえ、教えていただきありがとうございます」
「うん。……え、ちょ、帰るの?」
「帰ります」
森田は「そっか……」と呟いて、目を伏せた。そんな顔をされると、なんだか申し訳ない。楽器体験を受けたほうがいいのだろうか。質問だけしてさっさと帰るのはマズイだろうか。
「……あ、やっぱり帰りません。楽器体験したいです」
部長・森田の瞳がアルトホルン色に光る。
「なんの楽器がいいっ?」
掴みかかるような勢いで顔を近付けてきた。興奮しているようだ。詩音は「あー」とか「うー」とか呻いたあとに、
「えー、えーと……ユーフォニウムとか」
「マジか、分かってんじゃん。どうぞマウスピースです」
「あ、ありがとうございます」
銀色のマウスピースを受け取る。
「じゃあ、まずは洗いに行こっか。水道はこっち、ついてきて」
「は、はい」
楽器のことになると目の色が変わる……本当にそんな人がいたんだ。ヒョコヒョコ揺れるポニーテールをぼんやり眺めながら思う。
「あ、そうだそうだ」
視聴覚室の扉に手をかけた森田はクルンと振り向いて歩いてきた道を戻ると、
「ひので。今度は笑顔でよろしくね。もう自分のパート戻っていいよ」
ポンと笹木の肩を叩いた。笹木は「はい」と返事をして自分の持ち場に戻る。
笹木の笑顔は、気味が悪かった。
最初のコメントを投稿しよう!