箱の中の住人

1/1
7人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
 三津屋沙月は苛立っていた。  耳障りな音が今日も彼女の神経を逆なでする。これで何度目だろう。  腹立ちまぎれにテレビのリモコンに手を伸ばした瞬間、再び「ドスン」と言う音と微かな振動が届く。たまらずリモコンを床に叩きつけた。 「うっさいっ!」  ヒステリックに叫ぶとスマホを手に取り、通話記録から目当ての番号を探し出す。  ――もう無理。耐えられない  新参者だと思って、しばらくは我慢してきた。けれど上階の住人が出す騒音にはもう限界だ。 「今度こそ追い出してやる」  そう息巻いて通話ボタンを押す。10コール鳴らしたところで一旦切り、時計をにらむ。  相手が出ない場合は、10分おきにかけ直す。  あまりにも間隔が短いと、嫌がらせと取られる可能性があるからだ。 「あと5分……」  一秒ごとに自分の中の怒りが、どす黒い塊に変わっていく。  塊で肺が押し潰されそうになったころ、ようやく二回目の通話ボタンを押した。数コール後に相手が出ると、沙月は息を整え努めて冷静に言った。 「川崎マンション205号室の三津屋ですが」  相手の反応を聞き終わらないうちに、一気にまくし立てる。 「もういい加減にしてください。あの音には限界です」  返ってくる言葉は相変わらずおざなりな言葉ばかりだ。馬鹿にしている。いつもそうやって上手くかわされるのだ。 「何度その言葉を言えば気が済むんですか。私の言ってること理解してる? こっちはこの3ヶ月まともに寝られてないんです。このまま病気にでもなったらどうしてくれんの?」  怒りで沙月の脂肪の薄い頬がひくひくと痙攣する。この数ヶ月で5キロも痩せてしまった。 「私達はただ、静かに生活したいだけなの!」  わかって欲しい。いや、わからない方が、おかしい。  何度も言葉を重ね、相手の反応にいらつき、そんなやりとりを数十分繰り返したところでインターホンが鳴り響いた。一瞬びくりとなる。  誰だろう?  通話口の相手に言いたいことはまだまだある。けれど突然の訪問者をそのままにしておくのも気になる。  沙月は心の中で舌打ちをすると、一旦切ることを告げた。その間にもう一度呼び出し音が鳴り響き、苛立ちながらインターホンの通話ボタンを押すと、宅配業者だった。  渡された荷物は、冷凍物を扱うクール便だった。発泡スチロールで出来た箱で、大きさはビジネスバッグがすっぽり入るくらい。 「一体何なの……」  何か注文した覚えは無い。送り主を見てみるが、まるで心当たりが無かった。  送り状の商品名には「生もの」とだけ書かれてあり訝しく思ったが、また夫が隠れてカニだか肉だかを買ったのだろう。帰ってきたら文句の一つでも言ってやろうと思い、テーブルの上に置いて開け始めた。  箱の中のものは、何重ものビニール袋に入れられた上に、粘着テープでしっかりと梱包されていた。透明度が低いため、中がよく見えない。  沙月は袋ごと取り出し、しげしげと眺めてみる。やはり外からは中の様子がよくわからない。凍っているようでかちかちに固まっているものがいくつか入っているようだ。  苦労して粘着テープを剥がし終え、袋の口を開く。中には霜をかぶった黒いものが見えた。  ――何、これ  沙月は中の物にそっと手を触れてみる。ざらっとした手触り。そして顔を近づけ正体を認識すると同時に、「ぎゃっ」と声を上げた。  黒っぽく見えたものの正体は、切り取られた猫の首だった。  うつろに開いたままの濁った瞳と、目が合ったのだ。  所々どす黒い血がこびりついている。箱の大きさから察するに、他の部位も入れられているのだろう。  沙月はがくがくと震えながら何とか離れようとするが、腰が抜けて上手く動けない。ふらついた拍子に手があたり、猫の死骸が箱ごと床に落ちる。猫の頭が、床の上に転がる。  再び、悲鳴。  ――誰が、誰がこんなこと  パニック寸前の頭で考える。猫のばらばら死体を送りつけるなんて狂ってる。 「……あいつだ。上の住人だ」  こんなことをするのは、他に考えられなかった。  そう思い立った途端、沙月の頭は怒りと屈辱で沸騰しそうだった。顔がかーっと熱くなり、呼吸が荒くなる。  あり得ない、あり得ない、あり得ない!  激しく首を振る。怒りで唇がわななくのがわかる。  人に迷惑をかけておいてよくこんな酷い嫌がらせをできるもんだ。いつだっていつだって正しい人間が損をする。こんな事があっていいはずがない!  床に拳を打ち付ける。身体が小刻みに震えていた。  ――許せない  許せない許せない許せない。こんなこと許していい訳がない。  自分がいかに間違っているのか、思い知らせてやらなければ気が済まない。  沙月は徹底的に戦う決意を決めていた。  先程の恐怖心は、一瞬で消え去ってしまっていた。 ■  宮下知恵は携帯を閉じると、ため息をついた。 「どうした?」  隣で様子を見守っていた俊彦が声をかける。 「三津屋さん。もういい加減にしてほしいってさ」 「あのおばさんもしつこいな。お前も話を聞いてやるから図に乗るんだよ」 「だって……仕方無いじゃない。悪いのはうちなんだし」 「だからって、あんなに何度もかけてこられたら迷惑だろ。お前だって携帯鳴るたびに、びくびくしてるし」  俊彦が言うのも無理なかった。最近の知恵は電話恐怖症と言えるほど、電話がかかってくることに怯えているからだ。 「お前こそノイローゼになりそうで、俺は見てられないよ」  知恵は小振りな団子っ鼻をすんと鳴らし、 「心配かけてごめん」とだけ言って、席を立った。心配そうに知恵を見つめる俊彦の視線を背中に感じる。    ――これで、いい    知恵はほくそ笑む。  自分はこれくらい弱い立場でいなくてはならない。そうでなければ、自分が犯人だと疑われるから。    ――これで、あの女に一泡吹かせてやれる  三津屋沙月。あの頭のおかしい女のおかげで、どれだけ心を痛めたことか。  最初の頃、知恵は素直に自分の非を認めていた。かかってくる電話の度に、謝ったものだ。  そして、何度も何度もかかってくる電話で罵声を浴びせられるうちに、知恵の感覚はどんどんと麻痺していった。  自分が悪い、自分が悪い、自分が悪い。  周りからどれだけあの女がおかしいと言われても、自分が悪いとしか思えなくなっていた。  電話がかかってくる度に怯え、人と会話をするのが辛くなっていった。そこから抜け出すのに一ヶ月以上を要したし、心療内科にもかかった。  どうにかして強迫観念から抜け出すと、今度はあの女に対する憎しみが地底のマグマのごとく、一気に噴出して来た。自分をここまで追い込んだ三津屋が憎くて憎くて、堪らなかった。  ――自分がこんなに人を憎むようになるなんて  知恵はこれほどまでに人を憎いと感じたことなど無かった。そして、自分をそうさせた三津屋を許せなかった。  ――痛い目をみせてやりたい  ああいう人間は、自分の言葉がどれだけ人を追い込み、傷つけているのかわかっていない。自分が全て正しいと思いこみ、正義を盾に何を言っても許されると思っている。  少しくらい痛い目を見せなければ、自分の受けた苦しみが報われない。  どうやったら復讐できるか、知恵は考えに考えた。中途半端な嫌がらせなどするつもりは無かった。  そうだ、死体を送りつけてやろう。  こんなことを平気で思いつく自分は、もう狂っているのかもしれない。知恵はそう感じながらも、誰にも悟られないよう準備を始めた。  とはいえ動物の死骸など、そうそう手に入るものでもない。仕方がないので、自分で作ることにした。  近所の野良猫を捕まえようとしたが、思った以上に警戒心が強くなかなか捕まらない。  知恵は簡単に猫を手に入れる方法を探した。そうだ、もらってこればいいのだ。  しかし顔見知りにもらうわけにはいかない。  知恵はネットの里親募集サイトから、適当な猫を選んでもらうことにした。何件かに問い合わせをし、警戒心の薄そうな相手を選んだ。  しばらく飼ってしまえば、情が移ってしまう。知恵はもらったその日に、猫を殺した。  可哀想だとは思ったが、復讐のためには仕方がない。まだ子猫だったので、首の骨を折れば簡単に事切れた。そして包丁でばらばらにし、冷凍庫で凍らせた。  ――今頃どんな恐ろしい思いをしていることか  恐怖に震える三津屋を思い浮かべると、知恵は愉快で堪らなかった。 ■  三津屋沙月は305号室のドアの前に立っていた。  手には猫の死体が入った箱を抱えている。  あの後すぐに警察に電話をしようとした。しかしよく考えてみると、この死体の送り主を証明するものが何もないことに気づいた。  こんな状態では、どうせ適当にあしらわれるのが関の山だ。警察と言うものは、証拠がなければまともに動いてくれやしないのだ。    ――そうだ、返してやればいい  同じ目に遭わせてやればいいのだ、と沙月は考えた。自分への送り状を剥がし、死体を元通り箱に詰めた。念には念を入れ、指紋も全て拭き取っておいた。  ――部屋の前に置いてきてやる  箱をドアの前に置くと、そのまま立ち去る。  まさか自分が送りつけた物が戻ってくるとは、思ってもいないだろう。  そう考えると、沙月は愉快で堪らなかった。箱を見て憤慨するテングザルのようなあの女の顔が浮かんだ。    ――さあ、どう出てくるか    お前が犯人だろう、と言ってこようものなら、死体を送りつけた犯人が自分だと認めるようなものだ。そうなれば訴えてやればいい。  何も言ってこなければ、私の勝ちだ。  沙月は半ば興奮した面持ちで、自室の玄関の扉を開けた。 ■  宮下知恵は落ち着かなかった。  そろそろ三津屋沙月の家にあの死体が届いているはずだ。  あの女はどんな反応を示したのだろう? まさか私が犯人だとは思うまい。様々な想像が知恵の中を駆けめぐるたび、興奮する精神を押さえるのに苦労した。 「どうかしたのか?」  俊彦が訝しそうな表情で知恵を見る。 「なんだか顔が青いぞ。気分でも悪いのか」 「ううん、何でもないよ。ちょっと疲れているだけだと思う」 「大丈夫なのか。ここのところ根詰めすぎだろう。無理すんなよ」  俊彦は心底心配そうな目をしている。知恵は心が痛んだ。俊彦は本当に優しい男だ。 「ごめんね、いつも心配ばかりかけて」  全てはあの女が悪いのに。俊彦にまでこんな思いをさせる三津屋を、知恵はますます許せないと感じた。 「なあ、気晴らしにメシでも食いに行かないか」 「え……ごはん?」 「たまには奮発してイタメシでも行こうぜ。お前好きだろ?」  イタメシの気分にはなれなかったのだが、黙って俊彦の提案を受け入れることにした。変に断って、また心配をかけてはいけない。    知恵は出かける準備をすると、玄関のドアを開けた―― ■  三津屋沙月は戦慄していた。  ――なんで? どうして?  部屋に戻って30分もしないうちに、家のインターホンが鳴り響いた。ひょっとして上の住人が? と思った沙月が意気込んで出ると、なんと相手は警察だった。 「三津屋さんですね」 「は、はい」 「S署の高橋と言いますが、ちょっとよろしいでしょうかね」 「い……一体何なんですか」  モニターを見つめる沙月の額に汗がにじむ。 「それはご自分でわかっているでしょう」  有無を言わさない声音だった。  まさかあの女、警察に通報したのか。  ――信じられない  正気か? と沙月は思った。あの女、本当に気が狂っている。  でも。  ――いい機会だ。これを機に、あの女の犯行も明らかにしてやる  本当に馬鹿な女だ。自分で自分の首を絞めているのがわかっていない。それともばれないとでも思っているのか。  ――絶対に暴いてやる  ちゃんと話せばわかってくれるはずだ。今までだって、自分は被害者だったのだから。  沙月は覚悟を決め、玄関の扉を開いた。 「こんばんは、三津屋沙月さんですね」 「はい」  高橋の厳しい表情に負けまいと、沙月は冷静なふりを装った。 「何故、私が来たかわかりますか」 「……猫の死体のことでしょ」  高橋は黙って頷くと、厳しい表情を崩さずに続けた。 「何故、あんなことしたんですか」 「待ってください、そもそも私は被害者なんです」 「被害者?」  高橋は訝しそうに眉を動かす。沙月は大きく頷くと、 「あの死体は、元々私に送りつけられてきたものなんです」 「でも、被害者の方は知らないと言っていますよ」 「そりゃ、自分が犯人だなんて言わないでしょ。それを調べるのが警察の仕事じゃないんですか」  高橋はしばらくの間沈黙した。沙月はここぞとばかりに、まくしたてる。 「大体、私はこれまでもずっと耐えてきたんです。毎日のように続く騒音に、数々の嫌がらせ。その上にこんなものまで……私の方こそ被害者なんですから」 「……嫌がらせ、ですか」 「そうです。私がベランダにいるときに限って、布団たたきをはじめたり、私がいる部屋いる部屋を追いかけるように足音を響かせたり。  この間なんて、私がスーパーに買い物に行っていたら、あの人もいたんですよ。私、ストーカーされてんのかと思った」  沙月がまくし立てるほど、高橋の顔が呆れた表情に変わっていくのがわかった。 「聞いてるんですか? あなたも同じ目に遭ってみればわかります。どれだけ私が辛い思いをしてきたのかが」 「……わかりました。詳しい話は後でゆっくり聞きますから、一度署の方まで来ていただきましょうか」  それを聞いた沙月は激昂した。 「何で、私が連れて行かれんのよ! 悪いのは全部あの女でしょ!」  高橋は冷めた視線を沙月に向ける。 「わかったから、早く来なさい」 「何でよ! 何で誰もわかってくれないの!」  沙月は叫んだ。 「悪いのは305号室の坂田洋子でしょおおっ!!」 ■  宮下知恵が扉を開けると、そこには女が立っていた。 「……こんばんは、突然すみません」  突然扉が開いたことに驚いたのか、相手は少し引きつった表情だった。  女の顔はどこかで見たことがあった。誰だろう? 知恵は考える。つい最近見た顔だ。  ――お客さん?  一瞬そう考えたが、客が自分の家を知っているわけがない。知恵は頭をフル稼働させて思い出そうとした。  不動産会社に勤める知恵は、毎日何人ものお客と接している。そのせいで、思い出すのに時間がかかってしまった。  自分の住所を最近教えた人間とは……。 「あ」  知恵は思い出した。思い出して、戦慄した。 「猫をくださった……方ですよね」  女は黙って頷くと、ゆっくりと言葉を発した。 「猫、元気ですか?」 「猫?」  後ろでやりとりを見守っていた俊彦が訝しそうに知恵を見る。 「猫ってどういうことだ? 知恵」 「………」  知恵は咄嗟に言葉が出ずに、沈黙した。自分が犯した罪にようやく気づき始め、がくがくと足が震え出す。 「私、心配になって様子を見に来たんです。猫に会わせてもらえますか」  女は真剣な目で知恵を見つめる。その目はすがっているようにも見えた。 「猫は……いません」  知恵は、それだけ言うのが、精一杯だった。 「何故、いないのですか」  女は表情を一変させ、知恵に詰め寄る。 「何でいないの? どこにやったの!」 「お、おい……」  俊彦が慌てて間に入る。 「どういう事なんだ、知恵。猫って何だよ!」 「実験業者に売ったの?」  女は今にも飛びかかりそうな表情で知恵を睨む。知恵はぶるぶると頭を振る。 「じゃあ、どこにやったんですか」 「……死にました」  それだけ言うのが、やっとだった。 「死んだって……どういうこと」  女の目に涙が溢れる。 「健康だったはずです。ちゃんと飼っていれば死ぬはずなどないでしょう!」 「すみません……」  知恵は突然土下座をした。俊彦が驚いて、後ずさる。 「すみません、すみません……」 「すみませんじゃなくて、どうしたかと聞いているのよ!」 「私が……殺しました」  女の目が見開かれる。 「そんな……何で、何でなのよ!」  女は泣きながら叫んだ。 「怪しいと思ったのよ……渡した後に連絡は途絶えるし。もしかして里親詐欺じゃないかって……!」 「ごめんなさい、ごめんなさい……」  知恵は泣きながら繰り返す。女は冷たい視線を向けて、言い放った。 「あなたを許さない。警察にいきます」 ■ 「……結局、どういうことだったんですか」  川崎マンション305号室の住人、坂田洋子が高橋に尋ねる。 「三津屋沙月の勘違いだった、と言うことです」  高橋は半ば呆れた声音で言葉を発する。 「あの猫の死体を三津屋沙月に送ったのは、不動産会社の人間でした」 「不動産会社?」  洋子は怪訝な表情で訊き返す。 「三津屋は不満がある度に、マンション管理会社の不動産業者にクレームを入れていたそうです。彼女の担当者の女性社員がいつも対応していたんだとか」 「ああ、そう言えばうちにも会社から何度かかかってきましたね。確か……宮下さんだったかしら」 「そうです。宮下知恵は三津屋から何度も何度もかかってくるクレームに、頭を悩ませていた。内容は取るに足らないことばかりなのにも関わらず、三津屋はとにかく自分が被害者だと言うことを宮下に訴えていたそうです」 「私たちの足音がうるさいとか……そう言う話は聞いたことがあります」 「宮下が言うには、坂田さんが出す物音など生活の範囲内だった、と言っていました。一度どれだけうるさいか聞きに来いと言われ、実際に三津屋宅に行ったことがあるんだそうですよ」  洋子はとまどい気味に頷くと、ため息をついた。 「三津屋さんが私をよく思っていないのは薄々、わかっていました。最初は挨拶しても無視される程度だったんですが……。  だんだん、私の行動を監視するようになってきて……。あんまり気味が悪いんで主人に頼んで、玄関に監視カメラを設置してもらったんです」 「それで今回の犯行が発覚したわけですね」 「皮肉な話です」  そう言って洋子は苦い笑みを浮かべた。 「今回の被害者は、何の罪もない子猫だったのですよね」  洋子が暗い表情で呟く。 「そうですね。あの猫は本当に気の毒だったと思います」 「私、動物が好きですから……本当にいたたまれません」 「私もです」  高橋も静かに頷く。 「でも私、宮下さんをここまで追い込むことになったこと自体が、本当に恐ろしいことだと思いました。  今回の件、三津屋さんも自分は正しいと思ってずっと訴えていたわけですよね。少なくとも悪気はなかった。  宮下さんも仕事に熱心な人だったんだと思います。だからあそこまで追い詰められてしまった……」 「ええ……いい加減に生きるくらいが、今の世の中ちょうどいいのかもしれませんね」  そう言って、高橋は嘆息した。 「三津屋さんどうするって言ってました?」 「引っ越すそうです。さすがにあそこは居づらいでしょうから」 「そうでしょうね……」  洋子は曖昧に、頷いた。 ■ 「あれ、またあそこ入れ替わったんだ」  川崎マンション205号室を見あげながら、女が呟く。 「えーまた? 前の人も半年と住んでないじゃん」 「でしょ? なんか怪しくない」 「幽霊でも出るんじゃねえの?」 「えーやだあ」  そう言って笑い合う男女の隣を坂田洋子は通り過ぎる。 「……今のおばさんの顔見た?」 「見た見た。あれって火傷の跡なのかな」 「あれだけ目立つのは結構キツイよな」  鏡が一枚も無い川崎マンション305号室で、坂田洋子は一人静かに微笑む。 「……あと5分」  下の住人が帰宅し、ひと息ついたころ。  狙いすましたかのようにインターホンを鳴らし、姿を消す。 その瞬間を待つひとときのなんと甘美なことか。  もう少し親しくなって連絡先を聞きだしたら、無言電話もいいかもしれない。   次はどうやって追い詰めてやろうか――    それは一日中家にこもることの多い洋子の、唯一の趣味だった。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!