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……
「やーやー、凄いねえ。あの鬼の鏡像を切り裂けるなんて、相当な術師だ。それとも、剣士と呼ぶべきかな?」
息を切らした敷石の背後から誰かが声を掛けてきた。
疲労で足許の覚束ない敷石を、遊維が担ぐように支えているのには触れず、その少女のような姿をした何かが近寄ってくる。
「う……」
遊維が気分悪そうに呻くが、しかしそういった感覚のない敷石は特にどうとも思ってはいなかった。
シアンを混ぜた淡いグレーの髪を二つに結んで肩から前に流している。長い前髪は目元を隠して、その視線は覗えない。しかし牙の覗く緩い口元は気の抜けるような笑みを象っている。
服装は、瑠璃高が設立された当初に制定されていた制服だ。黒を基調にした軍服じみた上着に学生らしくないタイトスカート、そして黒いニーソックスとダークブラウンの革靴。
今でこそ制服もなくある程度自由な校風が確立されているが、始まりは軍隊的な管理教育をしていたということだろうか。
「あんたは、誰だ?」
「おや? こんな所まで来ておいて、それを問うのかい?」
「あなたが、ここの土地神さんですか?」
遊維の質問に彼女は然りと応じた。
「瑠璃堂琉狗(るりどう・るく)。この高校の設立者にして守護者兼管理者だ」
見た目こそ少女でも、年齢はかなりのものだろう。それでいてその数千年に個人には及ばない力を蓄えているということか。
「あの鬼は一体何なんです?」
「門番だよ。こんな地下にも侵入者はいるからね。その対策のために放っているだけに過ぎないし、まともな人間には興味を示さないように設定されているから」
この学校の生徒の殆どにはね、と琉狗はさらりと言った。
「俺はどういう扱いなんですか」
「君は鬼と同化しているだろう。そういった人間は基本的に排除されるよ。迷宮区で修練する分には問題はないが、この場所までは入り込めないようにしている」
封印室より深い場所にはね。
今回は敷石の実力を試しただけらしく、普段なら鏡像を無限に生み出して撃退するとのこと。
「話したいことがあるのだろう? 先ずは這入りなよ。茶菓子くらい出してあげるからさ」
「どうしてそれを」
「事前に宗谷くんが報せてきたよ。特例なんで彼女も口外はしないだろうから、気にすることはない」
いい修行になったろう? と、笑う。
悪意は感じないので、反発する気にはならない敷石だった。
「皆既月食と合わせて呪影の魔術師が街の人間を食い尽くす…………ふうむ、何とも奇怪な現象が起こるのだな、今の地上は」
「俺もそう思いましたけど。今回訪ねたのは、それに対して霊力の解放などの対応をしないで欲しいと思いまして」
うん? と琉狗は首を傾げた。
「ここまで来て、そんな要求をするとは思わなんだな。まあ、呪影に対して霊力を放つ莫迦者はいないだろうが、しかし魔術にはどう対応するのだ。『孤独陣』、蠱毒の陣は呪術的手法とは言え」
呪術を魔術に昇華させる相手にはあまり効果的な対応は出来ないと思うんですよ、と敷石は言う。敷石自身は魔術を見たことはないけれど、以前に姉から教わった基本的な要素でそう感じていたことを覚えている。
「そうだな、魔術に対抗できるのは同じ魔術か、他には異能くらいだ。異能は魔術に較べ新しい技術だが、千年も続けば新しいも古いもないだろうな」
「異能ですか。フィリスは異能者としては低級でしょう? 対抗できるとは思えません」
「だとすれば、やはり志木島くん、君が相手をするしかないだろう。周囲の人間は反対するだろうが、鬼源装を扱う者で動ける者はそうそう居ないからな」
どういう意味です?
問うた敷石には応えず、琉狗は彼に向かって手を伸ばす。胸元にあるアミュレット、そこに服の上から触れてくる。
その指先に赤い光が灯り、染みこんでいくように小さくなっていく。
「これは?」
「この頭の中にある『本物の赤い月』の情報を書き込んだだけだ。正直、月末の月食など待ってやるだけ魔術師の思う壷だろう。早期に呼びだして、相手の準備が整う前に消し去った方が早いし無難であろう」
赤い月の真似事をするには、呪影は力が足りんよ。そう言って琉狗は右手にもう一つ赤い光球を顕現させる。
「それは」
「まあ、見てみた方が早い。説明せずとも解る」
言いながらその右手を敷石の鳩尾に押しつけた。
「…………っ!」
どくん、と身体全体が拍動したかのようだった。
「しーちゃん!?」
隣で驚いたようにしている遊維の声も、耳には入らない。自らの内にある意識の虚に、錘でもつけられたかのように急速に沈んでいく。
「…………あれ」
意識を戻すと、目の前に修羅焔の姿がある。それだけで敷石は自分が精神世界にいることに気が付く。
「くそ、一体何をしたんだ、あの人は」
立ち上がっても、修羅焔は見上げるばかりで何も言わない。表情も起伏が無く、平坦に敷石を見ているだけだった。
それを不可解に見ていると、不意に彼は視線を別の方向に投げた。
指を差して、その方向に行けと敷石を促す。
よく判らないままに歩いていく。修羅焔は付いてこない。不思議に思いながら進んでいくと、黒く染まった世界に光が見える。太陽とも月とも違う、赤い光。
朝焼けでもここまで赤くはならないだろうと思いつつも、その方向へ歩いていく。
普段から近くで修羅焔や遊維の存在を感じながら生活している所為か、一人で歩いていく感覚はやけに心細い。そんなに弱かったかと不思議だったが、しかし反面で思考がクリアになっていた。
「赤い月、か」
琉狗は「本物の」と言っていたが、彼女が生きていた最初の時代には、赤い月の伝承がまだ残っていたのだろうか。
そこを聞いておかなければ、何も始まりはしないのではと思うのだけれど、訊いたら教えてくれるのかは正直謎だった。そもそも学校の設立者という肩書きが真実なのかどうかも判りやしない。
単にこの学校の情報を読んで、瑠璃堂琉狗を名告っているだけの可能性だって否定は出来ないのだから。
「赤い月が異星人だってんなら、人間には対処しきれないモノだった可能性もあるな」
この世界は何があるのかよく解らないし、星の外に関して言えば尚更だ。人間は、この長い時間をかけても未だ太陽系から出ることすら出来ていないのが実情なのだから。
宇宙という無限を見る前に、月の有り様を考えるくらいはしなくてはならないのだ。
「そういえば穢土流しだと、月の裏側に文明があったと聞いていたが。あれは創作なのか事実なのか。事実なら、普通地球側と交流があってもおかしくはないのだけど」
人間の歴史にはところどころに穴がある。記録されていなかったり、それが抹消されていたり。そもそも消されていることに気付いていなかったり、事実が改変されたり変質していたり、全く嘘を吐いて真逆のことを伝承していたり。
「単なるおとぎ話が、実際に起こっていたり」
昔から、そういった事例はいくつも存在している。特にここ数年になってから、ある異能者の手によって「事実だと思われていた歴史」が覆される自体になっている。
歴史というか、世界そのものには影響を及ぼさないのに、なぜ歴史を改竄しているのかまでは、彼は解かないけれど。
権威ある歴史書までもが偽史を書くような事態になっていたのはどういうわけなのか。最近の界隈はそういった謎解きが流行っているらしい。
敷石には全く理解できないムーブメントだけれど。
「案外、そういうのも人でない何かの影響かもな」
歴史は人間だけが創るものではないということ。世界は裏側があるということ。一般の人間には見えない世界。異能者たちの世界は、そういうものを垣間見ているのかも知れない。
「っと」
考えながら歩いていると、いつの間にか遠かった光が強く見える位置まで来ていた。それほど長く歩いていたわけでもないだろう。それでも光が大きく見えるのなら、それが事実だ。
「んー、なんだろう」
光は何故か左眼に眩しい。それ以上に、近づくほどに全身に柔らかな熱を感じる。いつも修羅焔から迸る焔の熱ではなく、普段遊維や八重子から感じる人の体温に似た暖かさだ。
人間が好み、鬼が嫌う、命の熱だ。
「なんだ、これを嫌がってあいつは来ないだけか?」
面倒臭いとは思わなかったけれど、人間らしさなんてものも感じなかった。本当にあの記憶の持ち主なんだろうかと疑ってしまう。
そして、光の渦巻く場所へ来ると、その大きさには驚かされた。
直径にして五十メーターはある赤い光のドームが目の前で拍動しているのだ、気圧されない者は居ないだろう。
「えーと、これをどうすればいいんだ?」
なんとなく、右手で触れてみる。ふわりと温かく、心地良い感覚が手を包んだ。
「這入り込める……のか」
するするとその空間に身を沈めていく。全身を熱に包まれながら、見えないほど輝く命の中心に向かっていく。
中心に向かうほど、その鼓動がよくわかる。心臓に似たリズムで動くそれを確かめて手に取れば。
「…………っ、く……」
その熱が敷石の精神に染みこんでいく。
「で、終わった?」
「ん、あれ?」
目の前に修羅焔が立っている。いつものように不敵に笑みながら、赤い眼を光らせている姿を見て、なんとなく敷石は安心していた。
握っていた右手を確かめて、あの熱がどこかに感じられないか探った。
見つからなかったけれど。
「何だったんだ、あれ」
「知っているくせに。命そのものだよ。君の寿命を無理矢理に延ばしたんだ。…………流石に土地神ってだけのことはある、僕にはそんな真似は出来ないからな」
不機嫌そうな口調だったが、それでも本当に不機嫌だったら無表情になることは解ったので、それはポーズなのだろう。
「戻るといい。この力は最後まで使わない方が良いだろうから、気をつけなよ」
解っていると返し、赤い光の欠片が残る空を見上げた。
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