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翌日、臨時の休校を生徒全員に通達したのは、猫子に報告を受けた教頭だった。結界内には呪影が色濃く充満しているので、特定の生徒以外は出入りできなくなっている。
「ただいま。食材買ってきたけど」
「おかえり、しーちゃん。やっぱり皆で食事するなら鍋だよね」
校舎三階の調理室でガスコンロを用意していた遊維にそう言われて、敷石はよく解らんと返していたけれど。
初夏を迎えて、汗ばむくらいには暑いのにどうして鍋を用意することになったのやら。遊維の思考回路が予測不能だ。
「敷石くん、重そうだね」
「別に。このくらいは枕ほどにも感じないよ」
変な喩えだねー、とフィリスは笑う。
空いている席に座る。遊維と九鬼の間だった。昨日の戦闘が終わった後に学校に駆け込んできた彼は、失敗したと聞いても表情を動かすことはなかった。
九鬼に糾弾されるのかと思っていた敷石は、やや拍子抜けしたような不思議な気分だったが。聞いてみれば、元から成功率の高くない作戦に失敗したところで、やり直しができるなら怒る理由はない、と言ったのだ。
なるほど、と納得した敷石だった。
「で、「赤い夜」って何だ」
九鬼の質問に、敷石は答えられない。火にかけられている鍋を見つめながら、よく解らないと返すしかないのだ。
「ただ、あいつの言う通りなら「あかいつき」は実在するってことのようだ。それを調べる必要がありそうだな」
「伝説上の存在じゃなかったんだね、それ」
仮説として出した猫子さえも意外そうにしていた辺り、そこまで真剣に検討していたわけでもないのだろう、しかしそれこそが鍵になるなら。
「廃神演義か。そんなことをして何になるっていうんだろう」
「リーファイ・ジョンドゥが神を憎んでいるのは確実だね。普通なら、宗教なんて普段から意識するものでもないし、神なんてものは尚更だ。明確に無神論を掲げる国は日本を含めて存在しないけど」
そも、神と言っても種類があるからね、と猫子はいう。
「絶対神と唯一神と体現神と概念神と現人神。これらを総じて標的に含めるなら、確実に戦争を起こすのと同義だよ。そんな理由で戦った歴史はいくらでも見つけられる」
煮えていく野菜を見ながら喋っている姿はシュールだった。鍋と会話してんじゃねえよ、とは思わなかった。
「『あかいつき』。それ自体をどうにかしないと話は進まない気もするけど。戦争するって言っても、呪影側にはそんなに戦力もないし、神を全滅させる手管もない。時間は普通にあると思うけどな」
呪影そのものは学校の敷地内に閉じ込めているので、外部へ漏れ出したりはしない。
「…………」
そんな風に話し合う中で、敷石は遊維のことが気になっていた。昨夜の戦闘の後にここにきたわけだが、緊張が解けた途端に崩れ落ちてしまったのだ。
今でこそ元気に振る舞っているけれど、昨日の戦闘でかなりの「命」を使ってしまったのだろうと想像できる。
これ以上、敷石は遊維に付いてきては欲しくない。無理に合わせる必要はない。
もっと、穏やかで平和な人生があったはずだ。
遊維が自分で選んだ道でも、それを拒絶する選択肢は周囲の人間にはある。最初にそれをしなかった、敷石自身の責任なのだろう。
「しーちゃん、食べないの?」
「え、あー……食うよ。腹は減ってるし」
「はいどうぞ」
遊維から椀を受け取って、柔らかく煮えた肉と野菜を噛み砕いていく。
食事には集中する方だから、特に不自然には思われなかった。
「やっぱり駄目か」
アミュレットをいろいろ弄って試してみても、再び「赤い月」を起動することはできなかった。一回きりの好機を不意にしたのは口惜しいが、これ以上は考えることを止めようと、それを首に戻して床に座り込む。
「しーちゃん、駄目だったの?」
「ああ。違う手段を考えなきゃな。……それより、お前は何か言うことがあるんじゃないのか」
「え? えーと、…………なんだろ」
「体調。悪そうに見えるけど」
「そんなことないよ、疲れてるだけだもの。眠れば元通りに―――」
敷石は元気そうに腕を持ち上げている遊維の手首を掴んで引き寄せる。
「うえ!? え、何、どうしたの?」
「嘘を吐くなよ。もう殆ど力は使えないんだろう? 誤魔化せると思うなよ、今更」
「……本当に、平気だよ?」
「……………………」
至近距離で視線をぶつける。敷石はにこりともせず、ただ黙っていた。
遊維はそれでも気丈に振る舞うのかと、その目が語っている。
「…………ちょっと、苦しいんだ」
呟く。遊維の真紅の眼の奥に、小さな怖れが映っていた。
敷石は応えない。手首を放して、右腕で彼女を抱き寄せる。
「無理はしなくていい。昔から言ってきたはずだぞ」
「そうだね……ごめんね」
敷石の脳裏には、昨日琉狗が言っていた言葉が過っていた。
『そうだなあ。久繰坂くんは、三十まで生きることはできないだろうな』
「でも……ふふ。しーちゃんが心配してくれて、嬉しいよ」
「心配させるなって言ってるんだよ」
まったく、と敷石は不機嫌そうにしている。それでも遊維を突き放すことはできなかった。
「遊維、いい加減呪術を覚えろよ。使えるんだろ、『紅爆』」
「難しいけどね。適性がぎりぎりで合格だったから」
「時間はかかるだろうけど、出来るよ。必ず」
遊維は不思議そうにしているが、すぐにふにゃりと笑う。
「そう? じゃあ、頑張ってみようかな」
「何あれ。恥ずかしくて見てられなかったんだけど」
「まず、見ないでいて欲しかったな」
猫子はそんな感想を吐くが、敷石はそれこそが羞恥を煽ることになると知って、いたたまれなかった。
「まあいいけど。遊維ちゃんの呪装は後回しにしよう。それより「あかいつき」に関してだ」
「はあ」
「萌芽院のデータベースにまでアクセスしたよ。世界の初期にまで遡る必要があったみたいだ」
猫子はプリントアウトしたデータを見せてくる。だが、数千年前の文書の文字など読めるわけがなかった。
「解りません」
「まあ、そうだよね。簡単に言えば、その「あかいつき」が現れた時、ある一日の記憶が世界中の人間からごっそりと消えたって話だね」
正確にはある時点から丁度二十四時間分。そのときの世界標準時は判らないから何とも言えないけれど―――と、よく判らないことを言い出した。
「記憶操作の存在だったんですか?」
「どうだろ。地球の全ての人間の記憶と認識に全く同時に干渉するなんてのは非効率的だとは思うけれど」
どちらかというなら、時間そのもの。と続けた。
「世界のタイムラインを自由に編集できるような能力だったんじゃないかな。昨日と明日を繋げて、今日の記憶を消し去ったように見せかけるとか」
こっちは宇宙そのものに干渉するから、やはり異次元の能力だというしかないけれど。そう言って、紙の束をデスクに置いた。
「その消えた一日が、リーファイの言う「あかいよる」だったんでしょうか」
「可能性は高いね。何かの特異点だったのかも知れないし、そこで何かの処理を完了したのかも知れない。どちらにせよ、今の技術で解析はできないし、謎のままだろうね」
猫子は手を出して、それを貸して、とアミュレットを要求してきた。
促されるままにそれを取り出して渡すと、何故か3Dスキャナに読み込んだ。
「何してるんです?」
「昨日の赤い月のデータを読み取れないかなって。擬似的にでも再現できるなら、それを支える基盤の式が存在するはずでしょ」
再現できれば、「あかいよる」を呼び出せるかも知れない、と言いはしたものの、猫子自身も確証はなさそうだ。
「ところで、敷石くん」
「はい」
「遊維ちゃんのこと、どう思ってるの」
「んー。無鉄砲が過ぎるかなあ、と」
「そっちじゃない。解っているくせに」
即座に否定されるとなかなかキツい、と敷石は少しだけ萎えた。
「今更どうとも思いませんよ?」
「……そう。八重ちゃんに聞いた通りの反応だね。関係性が突き抜けすぎてる」
「はい?」
首を傾げた敷石に、猫子はじとりとした目を向けた。
「敷石くんのこと、信用はしてるけどね。もうちょっと執着心持ってもいいと思うよ」
「執着ですか。今更な感じですけど」
「そう言って放り投げてるから遊維ちゃんが進んで無茶なことするんだよ。気付いてないの?」
「………………………………」
「中途半端な態度は取らないこと。あの子は力ずくじゃないと言うこと聞かないよ?」
力ずくって何だと問うてみた。
「押し倒してみたら?」
「高校生にそんな関係を求めないでください……」
「でも、タイミング的には今しかないと思うけど」
「違う方法を考えますから」
倫理的にアウト過ぎる。敷石は年齢的にRー18を知らないのだから、想像もつかない領域だ。とてもじゃないが実行する覚悟はない。
ただ。
タイミングとしては今が良いというのは正鵠を射ているような気がしていた。なんとなくだけれど。
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