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夜が更けた頃。敷石は玄関を抜けて、街の中に向かって歩き出した。
学校が終わってから一緒に返ってきた遊維がついてきやしないかと不安だったけれど、隣の家の灯りは落ちている。どうやら既に眠ってしまっているらしかったので、なんとなく拍子抜けする感情を呑み込んで進んでいく。
「望んじゃいないが、これは意識しすぎか」
空には月が浮かんでいて、真っ暗というほど昏くもなく。鬼の力を宿した敷石には寧ろ明るいくらいだ。
まあ、これから向かうのは街の中心にある繁華街の一角なのだけれど。
「軽く済ませるか。こんな所で目立つこともあるまい」
右腕をぐるぐるしながら、中心街に向かう坂を下っていく。前回の任務で情報を共有するために支給された骨伝導イヤホンを取り付けて電源を入れると、警察がやり取りしている情報がノイズ混じりに聞こえてくる。
「状況は動いていない、か。俺が出なければならないってことかもしれないが」
自然、駆け足になっていた。どうせこれからは死ぬほど動くことになるのだから、多少疲れようが構うものでもない。
「おつかれーい」
「相変わらず軽いですね、班長」
「堅苦しいのは嫌いだっていつも言ってんだろーが、シキ」
そんな台詞には溜息しか出ないが、しかしこの男性の警官としての実績はそれなりにあるのだから侮れない。
「んで、俺はどうすればいいんです?」
「いつもの通りに突っ込んでくれれば、とは思っていたんだが。どーにも中身がキナ臭くてな」
ほら、と班長は数画面を同時に映したタブレットを寄越した。
「…………? なんです、これ。人の気配なんかありませんよ」
「ああ、最初は逃げられたのかと思ったんだ。だが、どーにも不可解でな」
そもそも今回の作戦は相手に気取られずに準備したもので、相手の団体が、今ここに居ることは確定しているはずだった。
事実、街の中で騒ぎを起こした構成員は数人確保している。彼らに問い質しても移動する予定などないと言っていたらしい。その証言がどこまで信用できるのかはともかく。
「じゃあ、どうして」
「それを、これから確かめに行くんだろーが。シキを先頭にしないとそれ以上の安全策が取れねーんだわ」
うへえ、とらしくもなく呻いてみせる。しかし敷石が本気で嫌がっているわけではないことを班長は知っている。伊達で三年間、この少年と行動してきたわけではない。
「こっちでも武装した警官をサポートに送る。シキを含めた全員をここでモニターするから、連携自体は取りやすいだろ」
「了解。準備はどれくらいですか?」
「んー。すぐにでもいけるぜ。どうせシキは装備なんかいらんだろ」
どうせ、という言葉はどう受け取ればいいのだろうか。そんなことをぼんやり思ってから、そうですねと返した。
薄暗い路地の奥。そこが暴力団の拠点だ。ネオンの灯りが照らす繁華街の喧騒からは少し離れ、どこか寂れた雰囲気を漂わせている。新興勢力がこういう隠れ家を使うことは、実はあまりないのだけれど。
「廃ビルでもテナントでもないっていうあたりがヤバそうだがー、それも今の危険性にすれば軽いもんさ」
軽いかなあ、と疑問だったが。それでも考えている時間ももったいなく、さっさと終わらせようと道を塞いでいる柵を跳び越えた。
「じゃあ、死ぬなよー」
敷石の手がドアを音もなく閉じた。
無数に何かの書類が散らばっているエントランスには誰も居ない。視線だけを走らせて周囲を窺うが、誰の姿も見えない。敷石の他に這入り込んだ五人の警官も、同じように感じていた。
警官の持つ静音銃が周囲を警戒しながら向けられる。
そのまま進んでいくと、敷石の足元に何かが貼り付くような感覚があった。闇の中では黒く見えているが、漂う匂いから、おそらく血液だと推測できた。
まだ新しいな、と敷石は思っていた。
左手で情報端末を取り出す。建物内のマップを映している画面に一瞬だけ目を落として、ルートを確認しながら進んでいく。とはいえ、階段は下りしかなく、それも最下層までの一本道だ。
狭い階段を陣形を維持したまま進み、地下五階まで降りていく。
『なあ、シキ』
イヤホンから班長の声がする。
『さっき、血を踏んだって言ってたろ? じゃあ、その血の出所になった奴はどこに居るんだろうな?』
「…………?」
『生きているにせよ死んでいるにせよ、どこかには居ねーとおかしいだろ。猛獣が丸呑みしたわけでもない限り』
猛獣……、どうだろうと敷石は表情を変えないまま思案する。人間を捕食する生物は何も獣に限った話じゃあない。あやかしや鬼なんて普通に人間を食糧にするし、最悪、人が人を喰らうなんて事例もあるくらいだ。
フロアには部屋は一つしかなかった。大方、ここがリーダーの部屋なのだろう。
ドアに手を掛ける。
瞬間、向こう側から何かがドアを破って飛び出した。
反射的に右手で刀を抜き、その何かを縦に両断した。
「退がれ!」
敷石は全員に一言で指示を飛ばし、自分は部屋に踏み込んだ。
やや広い空間の中で、何かがばたばたと走り回っている。異常な音がさっきまでの静けさに慣れた耳に鬱陶しい。
「修羅焔、やるぞ!」
その声に呼応して刀がぎいいいいん、と鳴くと同時に、刀身から赤い炎が噴き上がる。
「修羅焔嵐!」
敷石が身体を横に回転させながらそれ以上の速度で刀を真横に薙ぎ払う。
空間の全てを焼き払う、赤い嵐が巻き上がる。その渦が消えて、次の攻撃に出ようとした瞬間、
「見つけたよ、やっと」
囁くような声が敷石の耳をくすぐった。
視線を正面に向ければ、デスクの上で脚を揃えて座っている、碧い髪の少女と目が合った。
「…………っ!」
敷石が刀を正眼に構え、殺意を凝縮すると。
少女は「待って待って」と両手を上に向ける。
「ボクはここの人間じゃないよ。証拠見せようか」
「証拠?」
訝しむ敷石に、少女はポケットから小さな手帳を取り出して見せてきた。
「フィリス=ベリア=イヴァンジェリア……所属がインターポール?」
「現在は暇をもらってるけどね。それで日本に来たわけ」
詳しいことは外で話そうよ、とフィリスはさっさと敷石達が来た道を引き返していく。デスクの椅子に目を遣ると、首を落とされた死体が座っている。どういう状況かは解らないけれど、半分焼け落ちてしまったそれを放置して、敷石も外に向かって歩いていくのだった。
「そう、人間を喰らう魔術師を追っかけてきたんだよね」
フィリスはあっけらかんと目的を明かした。これは別に隠すことでもないという判断からなのだろうと敷石は思うけれど、そう簡単に吹聴して回っているのかと不安にはなる。
繁華街から抜けて車で五分ほど走ったところにある警察署で、何故かフィリスと相対しているのは、本来部外者であるはずの敷石だった。
なんでも、彼女が「敷石以外には何も話さない」と言い切ってしまったらしいが、そんなものは敷石には単なる迷惑行為でしかない。
「そうしてると、本当は『くらやみ』に消されるはずなんだけどね。彼はどうしてかそれを回避してる」
「くらやみっていうのは、俺達が『呪影』と呼んでいるものと同じものなんだな」
彼女は頷いた。血に塗れてまだら模様の髪の毛が、着替えたばかりの淡い色のチュニックとは相性が悪い気がしたけれど、所内にシャワーなんか無かったはずだから、どうしようもない。
「魔術師か。日本にはそんなに居ないはずだけれど」
「そんなことないよ。だって日本には「陰陽師」が居るもの」
陰陽道は道教と日本の神道など多数の術式が混ざり合い形成されたものだが、やはり国内では表立って名告る者は少ない。
陰陽師自体が国家公務員であるという噂は聞いたことのある敷石ではあるが、そもそも接点のない術師について知れることは限られている。
「ボクが追いかけてるのは、そういうものを求めてるから。速やかに排除しないと、この街一つが消えるくらいじゃあ済まないよ」
「…………うーん」
「信じられない?」
「いや、信じていないわけじゃない。ただ、それを俺が知ってどうするっていうんだよ」
「魔術師を追いかけるのに、君の力を貸して欲しいから。あの刀なら、戦えるんじゃないかなって」
頭を抱えそうになる敷石は、しかしパニックになることはなかった。
魔術師とは戦ったことはないからな、と迷っていると、フィリスは不思議そうに首を傾げる。
「嫌かな?」
「嫌がる理由は無い。でも、鬼源装が魔術に対して有効な理由が解らない」
フィリスは応えなかった。理由は解らないのか、言えないのか、言いたくないのか。どうあれ、敷石を自陣に引き込みたい意図を示してくる。
「安請け合いは出来ないよ。俺にもやるべきことはある。それに、こんなことをしていたら、遊維に呆れられるから」
「ゆい? その人は、どういう関係?」
単なる幼馴染みだよ、と返した。しかしその奥にあるものをフィリスは敏感に読み取ってしまったらしく、面白そうに笑っていた。
「わかったよ。三日ちょうだい、その間に君を説得してみせるから」
変なところに着地してくる。
「親御さんに説明をしなきゃだもんね」
「あ、親は居ないんだ。今の俺の保護者は姉貴だよ」
「…………ふうん?」
特に表情は動かなかった。そういうケースは知り尽くしているのだろう、と敷石も大して気にしなかった。
「敷石くん」
「ん?」
「その刀、見せてくれるかな」
「あん? いいけど、触らない方が良いぞ。契約者以外は触れると心を喰われるから」
言いながらデスクに置いた刀をフィリスは「ひょい」と手に取った。
「おい! 人の話聞いてたのか……え?」
彼女は刀に触れているのに、その顔色は平然としている。鬼力による侵蝕を全く意に介さず、刀を珍しそうに眺めている。
(どういうことだ? 鬼源装に生身で触れられるのは契約者だけのはず。契約者であっても他の鬼源装には触れられないのに)
「……へえ、これはちょっと変わってるね」
「もういいか」
半ば奪うように返して貰い、いつものように腰に戻す。
「ふふ、互いに互いを信頼しているみたいだね」
「……………………」
無言の敷石に緩い笑みを向けて立ち上がる。
「じゃあね、また明日」
そのまま扉を抜けて、見えなくなる。それを見送ってから、刀の柄頭を軽く叩いた。
反応はなかった。
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