第3話「クマの胸に染みるは積年の・・・」

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第3話「クマの胸に染みるは積年の・・・」

 どう出会い初めてのデートは何時どこでだったか、ふたりで行ったあちこちでの事をクマに話す。友達が聞き飽きた話をクマはひたすら黙って聞いていた。  秋穂は笑顔になったり泣き出したりしながら、思い出した二人の事を時系列もバラバラに思いつくまま話し続ける。  時間を忘れクマの機嫌もクマの事情も考えず、ひたすら喋っていた。  気兼ねなどいらない、ただのぬいぐるみなのだから・・・・・・。  ふと目を覚ます。いつのまにか眠っていた事に気付く。  付けっぱなしのダイニングの電気が恥ずかしそうに見下ろしていた。カーテンの掛かったままの奥の部屋が、暗いなりに朝を伝えている。  横に座っていたはずのクマが居ない。 (夢だったのかなぁ・・・)  もっさりと立ち上がった秋穂の目に、床で仰向けに転がるクマのぬいぐるみが写った。大きなぬいぐるみが大の字で転がっている。 「酔っぱらいの寝方ね・・・」  クマを椅子に戻して時計に目を向けた秋穂は突然覚醒した。時間が押している!  遅くはないがゆっくり出来るほど早くもなく、秋穂は烏の行水並みにシャワーを浴びて支度をして部屋を飛び出す。何となくいつもより体が軽い気がした。  鍵を閉めようとドアノブに手をかけて秋穂の動きが止まる。  ビニール袋が掛かっていた。そっと中を覗くと酒のつまみが入っていると分かった。 「え?」  急いで手に取り中を確認する。  スッパイイマンが一個袋の底に転がっていた。梅干しを手に取って中をもう一度覗く、間違いなく秋穂が無くした袋だ。 「え? え? 何で?」  昨夜見た時には無かった。確かにドアノブには何も掛かっていなかったのを覚えている。  狐に摘ままれたような面もちで立ち尽くす秋穂の背後を、奥の部屋の住人が過ぎて行く。階段を降りていく音に背を押された。  仕事に行かなくては。  梅干しのスッパイイマンを握りしめて袋を部屋の中に放り込む。カーテンも開けぬ薄暗い部屋は、秋穂の見たくない心の闇に思えて急いでドアで塞いだ。  閉まる寸前に見えたクマの背が薄暗い部屋に溶けていく。  秋穂の吐き出した闇を抱えてクマはあの部屋にいる。  仕事を終えて帰宅するまでじっと、ただじっとクマのぬいぐるみは同じ姿勢でいるのだろう。 (・・・家に帰ればクマのぬいぐるみが待っている)  ただそれだけの事が体の重みを少し減らしてくれる気がした。駅へ向かう足がいつもよりほんの少し軽い。そんな気がする。  それでも重力の手を借りて駅までの坂を秋穂はとぼとぼと下って行った。  秋穂は今夜も重い体を引きずって帰ってきた。深海の水を掻くようにゆっくりと部屋に入る。  俯いた顔を上げて部屋の中に目を向けると部屋の中は真っ暗。深海の穴蔵の様に暗い街と同じ空気をまとって静寂に支配されている。 「ただいま・・・」  昨日と同じように缶ビールの入ったビニール袋を下げた秋穂に返事は返ってこない。  部屋の電気をつけるとクマが居た。当たり前だ、ぬいぐるみなのだから何処にも行きはしない。それでもなんだか心が緩む気がした。 (ただいまだって・・・。なんだか、随分言わなかった気がする)  テーブルに突っ伏したままのクマの隣に座って頭を撫でてみる。 「留守番ご苦労様。・・・寝てるの?」  クマを起こして声をかける。黒目がちな瞳が真っ直ぐこちらを見てくる。 「今日はミスしなかった。当たり前のことだけど・・・褒めてくれる?」  クマは何もいわない。言わないが微笑んでるように思えた。 「寡黙な奴だな」  缶ビールをクマの前に置き、もうひとつの缶を開ける。 「お疲れさま、乾杯」  クマの前に置いた缶に軽く当てて一口飲んだ。 (家でぬいぐるみ相手に話しかけながらお酒を飲んでる三十路の女って、変な奴だと思われるんだろうな)  そんな事を考えながらまたビールを流し込む。  ふとテーブルの上を見るとビニール袋が三つ。ビールの入っていた袋とおつまみの袋、それと・・・。 「馬鹿だなぁ・・・」  秋穂は自分の額を叩く。  いつもの習慣でおつまみを買ってしまっていた。今朝見つけた昨日のおつまみがあるのを忘れておつまみがだぶついている。  ビニール袋をひっくり返して昨日買ったおつまみをテーブルに出し、今日買ったおつまみも同じようにテーブルにさらけ出す。 「・・・?」  何か違和感。 (そうだ、スッパイイマンは何処に行った?)  確か昨日店員が入れていた梅干し、朝入っているのを確認したのを覚えている。  朧気な記憶を辿ってポケットにしまったことを思い出し取り出してみる。あった、小包装されて一個入った梅干し。食べたいわけでもないのに、なんとわなしに開けて口に放り込む。 「・・・くぅーーーーっっ」  口の中に酸っぱさが広がっていく。甘く酸っぱい梅干しがビールの炭酸を上回る勢いで秋穂の思考を奪った。 「酸っぱぁ・・・・・・。でも、甘い」  懐かしい味を確かめて口の中で転がしてみる。ビールを口に含むと意外に悪い味ではなかった。ふと横を見るとクマがこちらを見ている。 「ごめん、ひとつしかないんだ」  そう言いながらクマの前におつまみを広げる。チータラとイカの形をしたスナック菓子。 「これも美味しいから食べてみて、遠慮せずにどうぞどうぞ」  クマが手を出すわけもなく、秋穂がほおばりながらまたビールを一口。 「クマ君もおばさんの愚痴聞くより若い子に抱きしめられた方が嬉しいよねぇ・・・」  自分の事をおばさんなどと思ったこともないくせに、クマの首に腕を巻き付けて意地悪そうに言った。クマの大きな頭が秋穂の頭に押されて傾く。それは困っている青年の様に思えた。 「逃がさないよ。今夜も話聞いてもらうからね」  居酒屋で管を巻く酔っぱらいオヤジのようだ。 「あっ、絡み酒だって思ってるでしょ。あんたには私の話を聞く義務がある!」  そう言った途端、失った悲しみがむくむくと湧き上がって来る。 (速人・・・)  義務があるのはクマじゃない、当たりたい相手はクマじゃない。本当に言いたいのは「私にはっきりとした別れの理由を話す義務がある」という言葉だ。  速人の胸を叩き思いの丈を言葉にして彼に叩きつけたい。  でも、目の前には彼はいない居るのはクマだけだ。だからクマを叩く、一度叩くともう一度手が出る。  心の端で「自分で拾ってきたくせに」ともう一人の秋穂が突っ込む。その声をやり過ごして既に定番となった思いを吐き出し始めた。  まだ心の残り火が紅く燃えている。酒で紛らわそうとしてもアルコールが残り火を炎の様に燃え上がらせて悲しくなる。  まだ言い足りない。  心の中に淀んでタールのようにべったり張り付く、黒々としたこの思いを吐き出したい。 「・・・馬鹿!」  ほろほろと涙がこぼれた。ほんの少しつついただけで、まだこんなに泣ける。心の中にこんなにも涙が溜まっている。 「あんたくらいよ・・・、反論も助言も何も言わないでただ聞いてくれるだけの人・・・。だから、聞いてよ!」  クマを叩いた。クマの胸を何度も叩きながら声をたてて泣いた。 「馬鹿・・・馬鹿、バカ! ばかぁ・・・」  嗚咽しながら叩く。  黙ったままのクマが秋穂の拳を全身で受け止めて、ただただ潤んだ瞳で見つめ返す。 「なにがもう駄目よ! 努力もしないで改善点も示さないで! そんなんで仕事が出来るかッ、首だ! クビにしてやる! 馬鹿野郎!」  初めてだった。  別れを告げられて泣き暮らし友達に話を聞いてもらってはいたけれど、今まで何故どうしての繰り返しだった。心の底から湧いてくる速人(はやと)への怒りが止められない。 「バカ! あんたなんて、あんたなんて・・・・・・」  大嫌いだと言いたかった。でも、その一言だけ口から出てこない。 「は、は、はや・・・」  速人の馬鹿と言ってしまえ! 速人なんて大嫌いだと叫んでしまえ!  心の中で自分をけしかけてみるが、名前を思い浮かべれば速人の笑顔が浮かんで切なさがこみ上げる。秋穂はまたボロボロと泣いてクマを叩いて嗚咽を漏らした。  こんな風に気持ちを吐き出す相手が人だったなら・・・きっと相手は困るだろう。次に会うときどんな顔をしたらいいか分からなくなって、もしかしたら疎遠になってしまうかもしれない。  クマを抱き締めてわんわん声を上げて子供の頃以来の大泣きを続ける。ティッシュで鼻をかみ涙を拭きながらまた泣く。  秋穂の涙を胸で受け、クマのぬいぐるみはただじっとそこに居た。 「ご・・・ごめん。ごめんね・・・染みになっちゃうね・・・」  クマの胸を撫で嗚咽で途切れがちな声で謝り、秋穂はまた泣いた。  夜の静寂に秋穂の泣き声がいつまでも続き、そして、気付けば夜が明けている。秋穂の事など気にもせず太陽が朝を連れてくる。  秋穂はクマを抱き締めたままでベッドの上で目を覚ました。今日も仕事に行かなくては・・・と体を起こす。  今日が始まる。今日を始める。
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