第4話「きざはし」

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第4話「きざはし」

「・・・ただいま」  部屋の電気をつけるとお馴染みの背中が目に入る。 「留守番お疲れさま」  クマの背を撫でながら声をかける。  いつもなら直ぐに缶を開けて飲んでしまうところだが、今夜は何となく着替えてからにしようと思い立ち奥の部屋へ向かった。  どうせビールを飲んだらそのまま寝てしまうのだ・・・と、部屋着ではなくパジャマに着替える。着替えた勢いで化粧も落とす。  毎日のように帰ってきては酒を飲みそのまま寝てしまう日々が続いていた。家に帰って着替える事すら久し振りな気がする。  ふと部屋からテーブルに居るクマに目を向けるといつもよりダイニングキッチンが小さく見えた。  少し小さめとは言っても四人掛けのテーブルは秋穂の部屋には大きい。玄関から入って直ぐのダイニングキッチンがテーブルで埋まっている感じだ。  今はクマが座り更にスペースを取られている感が強かった。 「クマ君が居ると私の部屋が更に小さく感じるよ」  クマの肩を叩いてビールの缶を開ける。  自分の部屋が小さいことは百も承知だ。しかし、こんなに小さかっただろうか・・・と思う。 「ここに住み始めた頃は友達呼んでタコパしたりしたんだよ・・・・・・」  何度となく女子会をした。お互いに恋愛話してきゃあきゃあワイワイ喋って、隣から苦情が入った事もあった・・・などと思い出す。 (いつから女子会しなくなったんだろう・・・?)  記憶を辿って秋穂の心がチクリと痛んだ。 (速人と付き合いだしてからだ・・・)  彼氏が出来て友達と疎遠になる事はこれまでなかった。  付き合う相手の言動が気になって、肯定や励ましが欲しくて友達に話を聞いてもらい相談に乗ってもらうのが当たり前だった。  秋穂はわりとオープンで恋愛に限らず何でもよく話す性格だったはず。  それなのに・・・彼と付き合いだしてからは違った。 (何が違ったんだろう・・・)  缶を握って秋穂は黙り込む。  黙り込む秋穂の隣でクマも黙って座っている。  友達のように話を切り替えたりせっついたり、話のまとめにはいったりもしない。クマは記憶を手繰る秋穂の邪魔をせず彼女の心が流れるままそっとしている。  高校や大学の彼とは学校の帰りにファミレスかファーストフード店に寄ったり、休日にショッピングかたまに足を延ばして遊園地か水族館。  高校の頃は実家に居たから当然のように夜は家に帰っていて、友達へ今日のご報告タイム。  大学で1人住まいになった頃お酒を覚えてお泊まりデビューして・・・。それでも友達と遊んで1人暮らしを謳歌していた。  彼とは日中キャンパスで顔を合わせ話をしていたのだから毎日会ってはいた。それでも、べったりでもなく友達付き合いとのバランスが取れていたように思う。  速人に大きく比重がかかったのは、彼が車を持っていた事も大きな理由だったかもしれない。 「車かぁ・・・」  大学での彼と社会人になって分かれて、あの時も友達と飲みに行って話を聞いてもらったりした。家で集まってギャイギャイ言いながら飲み食いした。  学生の頃に比べて毎日集合っていう訳にはいかなかったけれど、週末毎に集まって好き放題話して仕事のうさも一緒に笑い飛ばして。彼が居た頃より夕食を作っていた覚えがある。  速人と出会って遠出をすることが増えた。  社会人同士が会える時間は決まってる。必然的に友達の誘いを断ることが増え、遠出プラス泊まりも増加した。 「温泉、行ったことある?」  缶ビールを見ながらクマに話しかけた。 「無いか・・・。君は連れ歩くタイプのクマさんじゃないからなぁ」  大きなクマの肩を叩く、よしよし・・・という感じで。 「温泉、あちこち行ったんだよ・・・・・・」  車の中で流れていた曲、泊まった宿、新婚さんと間違われたことや諸々が走馬燈のように流れていく。  間欠泉からどっとお湯が沸き上がるように秋穂の目から涙が伝った。結構な厚みのある涙が熱を持ってぼろぼろと机に落ちていった。  手首で光るブレスレッドに目が留まる。  速人が買ってくれたブレスレッド。自然と首元に伸びた手がネックレスに触れる。これも速人が買ってくれたものだ。「似合うよ」と笑顔で言ってくれた。  触れたこの手でそのまま引きちぎってしまおうか? そんな事を考えて握ってみてもそんな事は出来ず、手の中で熱を持つネックレスに速人の温もりを思ってしまう。 「馬鹿だな・・・」  またビールを(あお)った。やはり飲まずにはいられない。  クマの前に置いた缶ビールも開けてつまみも口に放り込んでやり過ごす。  ネックレスもブレスレッドも外して引き出しに締まった。 「寝るぞ!」  乱暴にクマをベッドまで引きずって投げ込み秋穂もベッドに横になる。ぎゅっと抱き締めて涙を拭いた。それでもまた涙はこぼれる。 「ああ! ・・・もう!」  クマを叩き、そしてまた抱き締めて「馬鹿バカばか」と言い続けて泣いた。  それでも朝はやって来る。  開けられる事のなかったカーテンから漏れる光。  眉間にしわを寄せてベッドから体を引き剥がす。クマをベッドに残したまま烏の行水、そして家を後にする。  失恋を引きずって酒浸りになっても引きこもりにだけはなりたくなかった。  仕事には、行く。  ミスをすることもなく順調に仕事が進む午後。 「浅川」  廊下ですれ違いざまに香坂に声をかけられた。ミスはなかったはず・・・何をミスったのだろうと自然と肩に力が入った。 「すみません。 ・・・私、何かミスを?」 「そんな顔するなよ」  香坂は苦い顔で笑った。 「俺は風紀委員でも鬼でもないぞ」  いつもの爽やかな笑顔を見せる香坂につられて、秋穂もほんの少し笑顔になった。 「今日は顔色良いみたいだな」 「え?」 「まだ笑顔は冴えないけど、良かったよ。あ・・・」  安心した・・・と言おうとして香坂は止めた。  気心が知れているとは言え気にかけ過ぎかもしれないと思う。  特定の部下の言動を気にして顔色がどうのと言った挙げ句に「安心した」は、セクハラの序章と勘違いされなくもない。  相手が好意的に受け取ってくれるか、逐一見られているようで気持ち悪いと思われるか微妙なラインに入りかけているかもしれないと思って止めた。  言い掛けた言葉の続きを秋穂が待っている。 「いや、何でもない。ーーー何だったかな? よーんなぁ、よーんなぁ・・・だっけ?」  香坂のぎこちない言い方に秋穂がほんの少し笑った。 「あ、違ったか?」  秋穂は首を振って笑顔を見せた。懐かしい言葉だ。 「有り難うございます。合ってます」 「良かった、じゃあな」  遠ざかる香坂の背を見送りながら、秋穂はほんの少し心が温まる感じがしていた。  沖縄のお祖母ちゃんが言っていた言葉だ。  ゆっくり、ゆっくり。  香坂が覚えていてくれたことを秋穂は嬉しく思った。  新人の頃失敗して焦ったりガチガチだった秋穂を、香坂は誉めたり(なだ)めすかしたり大変だったことだろう。 「頑張れ頑張れって簡単に言わないで下さい!」  あの時は泣き出しそうな顔だったかもしれない。 「鬱の人間に頑張れは禁句だって言うけど、落ち込んだり諦めたりしてる人間にも言ったら駄目なのか!?」 「よぉんなぁ、よーんなぁって言って下さい。なんくるないるって」  困り果てた香坂の大きな独り言に秋穂はそう返した。 「・・・はぁ? 何? おまじない?」 「沖縄の方言です! お祖母ちゃんが背中を叩きながら言ってくれたんですよ。子供の頃に・・・」  秋穂は勢いで言ってしまってだんだんと声が小さくなった。 「どんな意味?」 「・・・・・・ゆっくり、ゆっくり。なんとでもなるって」  子供みたいな事を言ってしまった事が恥ずかしくなって、ますます秋穂の声は小さくなる。  そんな秋穂の背をぎこちなく、それでも優しく叩きながら香坂は言ってくれた。 「よーんなぁ・・・よーんなぁ・・・」  ぎこちなさに秋穂が笑うと香坂は背中を一度、強く叩いて止めてしまった。  それからは、テンパった秋穂を見ると「ゆっくりゆっくり、なんとでもなるさ」と言ってくれるようになった。標準語でも「頑張れ」より落ち着いて力を出せた気がする。  沖縄の今は亡きお祖母ちゃんとの事を思い出して、胸の中がほっこりしていた。 「よぉんなぁ、よぉんなぁ。なんくるないる」  穏やかなお祖母ちゃんの声が思い起こされる。  秋穂は子供の頃から何でも頑張りすぎる所があった。「ちゃんとしなさい」と「頑張りなさい」が母の口癖で、そうしなければ期待に応えなければと思いこんでいたのかもしれない。 「秋穂ちゃん、なんくるないる。てーげーやさ、てーげー」  いい加減と訳されがちな「てーげー」だけど、お祖母ちゃんのてーげーは違った。  そんなに頑張りなさんな。  肩の力を抜いて。  完璧じゃなくて良い、少しくらいいい加減でもいいんだよ。  お祖母ちゃんの声音からそういうニュアンスが伝わった。  誰かが言っていた。 「いい加減は良い加減」  手抜きをするのではなく、頑張り過ぎない良い加減。良くも悪くも「過ぎる」事は、きっとよくないんだ。だから、落ち込みを引きずり過ぎるのもよくない・・・。 (分かってる、分かってるよお祖母ちゃん。でも、ゆっくりで・・・いいよね。立ち止まらなきゃいいよね・・・)
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