第5話「一進一退」

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第5話「一進一退」

 秋穂は祖母の言葉を胸に頭の隅に浮かぶ速人をやり過ごし、昨日に引き続き今日もミス無く仕事を終えることが出来た。心の重石がほんの少し軽くなった気がして、いつもより顔を上げて会社を後にした。 (ゆっくりゆっくり焦らずに。うん、積み重ねが大事だよ)  そう自分に言い聞かせ、帰ったらクマ君に報告しよう・・・そんな事を考える。  日の落ちた空は暗い。  でも、久し振りに明るい気持ちで電車に揺られながら暗い外を眺めて吊革に掴まっている。街のあちこちに明かりが灯り、暗いながらも明るさを感じられた。  車窓に写る自分の顔が死人のように見えて、まだまだかな・・・と秋穂は思う。 (顔色、良くなってるのかな・・・。って言うか、そんなに顔色悪かったのかなぁ)  こんな風に外に目を向けて電車に乗っているのも新鮮な気がした。速人と別れてからの自分がどう生活していたか秋穂はよく思い出せない。  帰りの電車の中で何をしていたのか何を見ていたのか・・・。  車内広告に目をやるとどれも初めて目にする物のように感じた。  恋愛に浮かれていた自分と失恋でどっぷり沼にハマった自分。どちらも上手く現実とリンク出来ていないのだと突きつけられて心が少し重くなる。  止まった駅の広告も変わっているように思う。  広告の貼られる期間はどれくらいだろう・・・と眺めていた時、秋穂の心が跳ねた。 (・・・・・・!)  ホームを行き交う人々の中に光が射す。  スポットライトを当てた様に見知った背中だけがくっきり浮かび上がった。目に飛び込んできた姿に名詞が口を突く。 「速人」  気付いた時には秋穂は電車を降りていた。  人をかき分け押しのけて足を着けたホームに彼の姿は無く、秋穂は改札へつながる階段へと走るように向かう。 「何処? どこ?」 (間違えるはずがない。あれは絶対速人だった!) 「速人・・・」  髪型、背丈、服装。顔を見なくても分かる、あれは速人だ。  懐かしい背を追って気が急く。自然とこぼれる涙もそのままに、通り過ぎる人の目も気にせず速人の姿を探した。  しかし、改札を前に足が止まる。  改札を出て追いかけるか・・・と自問したが、秋穂の足はその場に張り付いて動けなかった。  引き止めてどうするというのだろう、またはぐらかされて惨めになるだけではないのか・・・。もう1人の秋穂が冷ややかに彼女を見つめている。  迷う秋穂を置き去りに電車は出て行く。  それぞれに行くべき場所へ向かう人々の中、秋穂だけが立つ尽くしていた。  秋穂は目を泣き腫らして帰ってきた。  コンビニには寄らず人の目を避けて真っ直ぐ部屋へ戻ってきた。電気もつけずに黙ってベッドへ向かい体を放り出してクマに抱きつく。  クマはうるさそうに押し退けることはしない。何も聞かず、秋穂のしたいように抱き締められてじっとしている。 (抱き締め返してくれたら満点なんだけど・・・)  ぬいぐるみのクマがそうしてくれるはずもなく、秋穂はしばらくそのままでいた。  どれくらいそうしていただろうか。  体の向きを変えようとした時、クマの腕が秋穂の頭に倒れてきてポンと軽く当たった。それは何となく慰めてくれているように感じられて笑えた。  ひとしきり笑い、黙り込む。 「・・・・・・お腹空いた」  空腹感を感じるのも久し振りだ。  むくりと起き上がり冷蔵庫をのぞき込むと何もなかった・・・。  ホテルの冷蔵庫並にさっぱりとして飲み物が多少入っているだけ。干からびた何物かが転がっている他は期限切れの物がいくつか。  1人暮らしの女性の冷蔵庫にしては殺風景だ。  以前はこうじゃなかった。  小腹が空いたらちょっと作れる程には食材が入っていたし、健康を気にしたり流行りを取り入れた料理にも挑戦した。品評会と称して友達と試食女子会をしてワインも飲んで・・・。  この所の自分を振り返ってみると、夜にビールを流し込み朝は慌てて出て行く姿しか思い出せない。 (・・・そりゃ、顔色も悪くなるでしょうねぇ)  香坂から顔色を気にされていた事を思い出し、苦笑いしながらそんな事を考えた。途端にお腹が元気に鳴く。 「しょうがない、買いに行くか・・・」  そのまま出掛けようとして躊躇(ためら)う。 (しわになってる・・・)  服を着替えると油と涙でよれた化粧が気になって顔を洗う。再度化粧をする気にはなれず現在の時間と距離を考えてすっぴんで部屋を出た。 「どうだっていいや・・・、誰も気になんてしないよ。三十路女の事なんて・・・」  そんな事を呟いてコンビニへ足を踏み込んだ。  お馴染みのルートは歩かず弁当コーナーへと向かう。新商品も目に付いたが野菜たっぷりの雑炊に手が伸びた。  飲み物のコーナーへ行きビールに目が止まるも手を出さず、その替わりにお茶を手に取る。  雑炊と飲み物を手にレジへと向かう途中で甘味が目に入った。  カゴを取ってスイーツを手に取ると止まらなくなって甘い菓子パンへ手が伸び、スナックも次々と入れて秋穂は我に返る。 (・・・これは、ちょっと)  類似したチョコとスナック菓子を戻し一点ずつに減らす。そして炭酸飲料を加えてレジへ。 「いらっしゃいませ。今日は凄いですね、女子会の食料補充ですか?」  店員から声をかけられて秋穂は顔を上げた。  人懐っこそうな笑顔の青年が手際よく商品を袋に詰めている。その青年の声を何処かで聞いた気がした。いや、毎日のように来ているのだから耳にしていても不思議ではないのだが・・・。 「今日は来ないのかと思ったんですけど、ビールは買わないんですか?」  こんな風に声をかけられるほど店員と仲良くしていた覚えはない。しかし、嫌な気はしなかった。 (何故だろう・・・?) 「スッパイイマン、美味しかったですか?」 「・・・・・・!」  カチリと音がした。 「あっ・・・」  (ほう)けた顔で指を指す。  店員はにっこり笑って、秋穂が向けた人差し指に自分の人差し指を付けて「ゴー、ホーム」と言って笑った。昔々のSF映画の台詞だ。夏休みに叔父さんの家で「良い映画だから」と従姉妹と一緒に見た作品。 「宇宙人・・・」 「E.T.だよ。・・・・・・て言うか、僕は地球人ですけどね」  そう言って爽やかに笑う。 「いつもと違った感じで、素敵ですね」  男性店員の真っ直ぐな目に秋穂は急に恥ずかしくなった。  夜中とは言え、化粧もせず部屋着でコンビニに来るのは初めてのような気がする。三十路の女のすっぴんを「素敵ですね」と言われるのは恥ずかしかったし、いつも見られているのだと改めて認識して恥ずかしさが増した。  秋穂は前髪を直す仕草をしながら俯き加減で恥ずかしさを隠す。 「仕事中にナンパしない」  女性同僚が青年の後ろを通り越しざまに冷たくそう言った。秋穂が声の主に目を向けると冷ややかな目とかち合って顔を伏せた。 「厳しい年下先輩です」  20歳前後の女性店員に目をやって青年が肩をすぼめて見せる。彼は30手前くらいだろうか。  これ以上会話を続けるつもりもなく、続ければ彼女の機嫌が悪くなる気がして会計を済ませると秋穂はそうそうに店を後にした。 「有り難うございました。またのお越しをお待ちしています」  明るい声が秋穂の背を追う。  沖縄の空のような声だ・・・と秋穂は思った。  夏休みによく泊まらせてもらっていた叔父さんは映画好きで、毎晩のように上映会をしていた。新作旧作問わず見せてもらった覚えがある。子供達に見せると言いながら叔父さんが一番楽しそうにしていた。 (今行ったら何を薦めてくれるかなぁ・・・)  そんな事を考えているうちに家にたどり着き、がっつり食べてベッドに横になった。本当にがっつりと食べた。買ってきた物をあらかた食べたと思う程に。 (こんな夜中に食べるなんて、速人と出会う前以来かもしれない)  秋穂はベッドで仰向けのまま額に腕を当て、天井を見上げてため息をついた。 (・・・速人)  駅のホームで見た背を思い出して心が引きずられる。  あの時、彼の横に自分が一緒にいたように見えた。彼が変わらぬ姿だったのと同じに、髪型も服装も変わらない自分の姿を見たように思う。 「幻覚・・・だったのかな・・・・・・」  速人を見たつもりだったが、速人見たさに他人と間違えたのかもしれない。 (あれが幻覚だったら自分はそうとう危ないことになっている・・・)  クマを抱きしめて目を閉じる。これ以上考えるのはよそう。 「クマ君、ごはん美味しかったよ。菓子パンもチョコも美味しかった。満足だよ」  速人の映像を押し退けて、久し振りに味を堪能し美味しいと感じながらの食事と差し替える。体に旨味が染みてほっこりと満ちた気持ちを思い返し、浸ってベッドに身を預ける。  体がじんわり温まりクマの柔らかさが心地よくて・・・。  ーーーどれくらい振りにか夢を見た。  ヒレと尾を持った小魚の秋穂が深く暗い海の底から見上げている。仄明るい海面は遠いけれど、頑張れば顔を出せそうなそんな気がした。  水を掻いて、水を蹴って海面へと向かう。  沢山の赤いハイビスカスが海の中を舞いながら落ちていく。 「きれい・・・あっ!」  突然潮の流れが変わり花が翻弄されてくるくると流されて、 「・・・・・・ダメ!」  速人からもらったネックレスがきらきらと流れていった。  ブレスレットもピアスもお気に入りの服も流されて、人魚が全て身につけて全速力で逃げていく。 「待って! まって!」  必死にもがいても人魚には追いつけない。 「もう駄目だと思うんだ」  巨大な魚がそう言って秋穂の目の前で崩壊していく。  ばらばらになって光る(うろこ)がきらきらとこぼれ落ちて、秋穂は慌てて手を差し出した。秋穂の手に鱗は乗りそうでいて乗らない。ふわふわと波に翻弄されてこぼれて流れる。  はっと目覚めて秋穂は自分の手を見つめた。  カーテンの隙間から差し込む光に手の平に滲んだ汗がきらきらと光っていた。    朝だ・・・仕事に行かなくては・・・・・・。
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