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赤ん坊の泣き声が聞こえる。
ひどい悪臭につられてあふれる胃酸をこらえながら、クリスは視界を塞いでいる血を乱暴に拭った。
船内には警戒音が鳴り響き、機械的な女性のアナウンスが繰り返されている。
『エンジンの爆発がありました。船員はただちに救命ポッドで脱出してください。あと五分で船内の酸素がなくなります』
クリスは背後から覆いかぶさっている白い壁から這い出て、腕に赤ん坊を抱いたまま壁の下敷きになっている女性に近づいた。
彼女は近づいてきたクリスに反応を示さない。
首の脈を測ると、彼女はすでに事切れていた。
クリスは祈りを捧げてから女性の腕を解き、激しく泣き叫ぶ赤ん坊をぎこちなく抱いて立ち上がった。
くりくりとした大きな青い瞳がかわいい赤ん坊だ。
「ど、どうやって抱くんだろ。首の後ろを支えればいいんだっけ」
慣れない手つきで首のすわっていない赤ん坊を抱き直していると、船が上下に揺れるほどの爆発音が響き、母親の体は剥がれ落ちた天井に覆い隠されてしまった。
クリスがあわてて共有スペースから飛び出すと、今度は熱風が肌を舐めた。
廊下は火に包まれ、救命ポッド直通のエレベーターは火の海の向こうに揺らめいていた。
赤ん坊を抱えて走り抜けられる自信はない。
「階段でフードコートへ行って、そこのエレベーターを使うしかないか。ごめんな、さよなら言う時間もなかったな」
クリスは火の回りが遅い階段を駆け下りた。
激しい振動に、赤ん坊が不満を爆発させて甲高い声を上げる。
「ごめん、ごめんな」
反射的に繰り返す謝罪では、何ひとつ慰めにならない。赤ん坊は小さな怪獣となって声を轟かせる。
肌をあぶる熱気、不安、孤独で視野が狭くなり、クリスは走りながら思考が迷走していた。
本当にこっちでよかったのか。自分はどこを走っている。
あのとき、無理にでもあのエレベーターに乗り込んだ方がよかったのではないか。
死の恐怖に押し潰され、心の均衡が崩れかけているクリスに、赤ん坊の大声は追い討ちをかけた。
「ちくしょう、ちくしょう!」
泣きたいのはこちらの方だ、という弱音は飲み込んだが、一度火がついた感情は鎮まってくれない。
「俺じゃあ嫌だな、お母さんがいいよな! ごめんなさいね!」
八つ当たりのように叫ぶと、赤ん坊も全力で叫び返すので、クリスは思わず吹き出してしまった。
その反応がおもしろかったのか、赤ん坊はぴたりと泣き止んで、真顔でクリスを凝視している。
「なんだよ」
赤ん坊の小さな手が、クリスの顔に伸ばされる。
そのやわらかい手の平に、ぽつりと雫がこぼれ落ちた。
クリスは鼻をすすり、にっと口角を上げて見せた。
「ありがとう、ちょっと元気でた」
指を差し出すと、きゅっとにぎり返す小さな力に心打たれた。
雲が晴れるように、視界に入る情報が色を取り戻す。
心の隅に隠れていた勇気が顔出して、クリスの背中を押した。
あきらめるには早すぎると、ようやくたどりついたフードコートの扉を押し開く。
フードコート内にも火が回り、惨憺たる状況だった。
肉の焦げる臭いに、ぞわりと鳥肌が立つ。
おぞましい光景を否認するように、クリスは作業着をにぎって遊ぶ赤ん坊に話しかけた。
「きみの名前がわからないから、とりあえずパトリシアって呼んでいい? 俺の母さんの名前」
赤ん坊は右手の拳を口の中につめ込みながら、じっとクリスを見上げている。
「母さんは、今日みたいな移民船の事故で死んだんだ。俺もその場にいたけど、救命ポッドの定員オーバーで引き離されて、母さんは移民船に取り残されちまった。俺も悲しかったけど、母さんは俺以上に怖い思いをしたんだろうな」
「小規模宇宙移民船アヌビスで快適な暮らしを」という巨大な看板に押し潰された船員の姿を見ないように、ひたすらエレベーターを目指す。
「やっとエレベーターに着くぞ。うわ、べたべたの手で顔触るのやめて」
エレベーターを前にして、気が緩んでいたのだろう。
その隙を突くようにして、イタリアン・レストランの割れた窓ガラスの向こうから血まみれの腕が伸びてきた。
驚いて反射的に距離をとったが、パトリシアのうさぎ耳フードをつかまれてしまった。
「たすけて」
全身血で染まった男は、血走った目を見開いてパトリシアを引きずり込もうとする。
怪我をしているとは思えない力だ。
人間とは、死に際にこれほどの力を発揮するものなのだろうか。
「やめろ、離してくれ!」
「くるしい」
「すまない! 許してくれ、俺はあんたを助けられない!」
フードの根元を力づくで引き千切り、クリスはエレベーターに飛び乗った。
扉が閉まって、向こう側と完全に遮断されたことに安堵する。
その場に座り込んでしまいたいのを、どうにか持ちこたえて、扉とは反対の壁に寄りかかった。
生命の、生への本能の強さを見せつけられて、体が震えた。
しだいにそれは、彼を切り捨てた罪悪感と混ざりあった。
『人類が宇宙で生きる選択肢を見出して早百年。地球を汚し、見捨てた人類への天罰のように、近頃は移民船の事故や、大規模住民船での奇病などが多発しています』
クリスは汗にまみれた顔を上げた。
天井近くの壁に埋め込まれたモニターにはニュース番組が流れていて、厳めしい顔つきの解説者が熱心に政府を批判していた。
地球でも宇宙でも、人間のやることは大して変わらない。
「俺がこんな目に遭っているのは、母さんを見捨てた天罰なのかな」
いまでも母の最期を夢に見る。
彼女はいつでも息子が助かる安堵と、悲しみと恐怖が入り混じった複雑な色を浮かべている。
あのとき、閉まる扉の隙間から這い出して、母のもとへ行くべきだったのではないかと煩悶を重ねている。
思考の海に沈んでいると、退屈しているパトリシアに作業着のファスナーを下ろされた。
何やってんだ、と声をかけると、彼女は満足そうに笑った。
理解できない無邪気な行動が、逆にクリスの心を軽くしてくれる。
「こんな事故を起こしたくなくて機関士になったのに、結局こんなことになっちまうんだから、人生ってままならねぇな」
ぴこん、と軽快な音を立てて扉が開くと、行き場を失っていた熱風が流れ込んできた。
気温調節が狂っているのか、作業着が汗でぐっしょりと濡れるほど暑い。
「きみも散々だな」
愚痴に同意するように、パトリシアもぐずっている。
配管が剥き出しになった廊下を進むと、ようやく救命ポッドのある開けた場所に出た。
しかし、ポッドのほとんどは崩れ落ちてきた天井で破損していて、まともに使用できるのはふたり乗り用の簡易ポッドひとつだけだ。
『あと一分』
窒息までのカウントダウンに、他の生存者のことを考えてためらっていた思考が吹き飛んだ。
「よし、脱出だ」
子供用の座席ではないので、汗で重みを増した作業着をパトリシアの背中につめ込んで厚みを増やし、なんとかシートベルトを着用させた。
ポッドの外側からパネルを操作して、脱出の意思表示をすると、なぜか警告画面が表示された。
「ポッドの損傷? ふたりぶんの酸素がないのか……ここまで来たってのに、ちくしょう!」
クリスは壁を殴りつけ、足先を見つめた。
滝のような汗が、ぽたぽたと床を濡らしていく。
「無理矢理ふたりで脱出したとして、酸素はきっと二十四時間ももたないぞ。その間に救助が来るとは限らない」
選択肢は限られる。
クリスはポッド内のパトリシアに視線を向けた。
座席に拘束されたパトリシアは、自分の足先をつかんで遊んでいる。
「ひとりぶんなら」
「どちらか」助かるかもしれない。
からからに乾いた声がもれる。どくどくと脈打つ心臓がうるさかった。
クリスはゆっくりとパトリシアに近づくと、目線を合わせるようにかがんで、そっと手を伸ばす。
すると、クリスの指を捕まえようと動いたパトリシアの背中から、空色の何かが滑り落ちた。
床に落ちたそれを拾い上げる。
真新しい手帳だった。
中を適当に開くと、今月のページに半分に折られた写真が挟まっていた。
写真にはパトリシアを抱く黒髪の女性と、彫の深い顔立ちのさわやかな男性が幸せそうに寄り添って映っていた。
失われた家族の時間に胸を痛めながら、何気なく写真の裏を見たクリスは驚愕した。
「愛しきプリンセス・トリッシュと……」
写真を持つ手が震えた。
聞き慣れた懐かしい愛称である。
脳裏に母の顔と、無邪気なパトリシアの笑顔が交互に浮かんで泡のように消えていく。
人間を超越した何者かの意思が関与しているのでは、と疑うのも無理はないだろう。
「トリッシュって、きみ、本当にパトリシアだったんだ」
クリスは泣き笑いのような顔で言った。
心は決まった。迷いは霧散して、清々しいくらいだ。
『あと三十秒』
クリスはその写真を手帳に挟んで、パトリシアのシートベルトに差し込んだ。
「いつも自分のことばかり考えているクズで最低な俺を許してほしい。けれど、もう迷いはないよ。きっと俺はこの日のために生きていたんだ」
涙のあとが残る丸い頬をなでて、澄んだ青い瞳を見つめる。
彼女の記憶の片隅に残る自分の顔は、葛藤に打ち勝った笑顔でありたい。
名残惜しげに手を離し、外から扉を閉める。
『あと十秒』
警告画面を無視して、クリスは救命ポッドを射出した。
球体型のポッドが船の外へ飛び出したのを見届けてから、窓の外を眺める。
「トリッシュ……パトリシア。きみなら大丈夫。きっとたどりつける。炎の中をくぐり抜けた勇敢なプリンセス」
船から遠ざかるポッドを見守りながら、クリスは窓にこつりと額を押しつけた。
「これでやっと眠れる気がする」
力尽きたように移民船内の電力が落ちて、酸素の供給が終了した。
風も匂いも温度も沈黙した、まさに無の空間から眺める星屑たちは、宝石箱をひっくり返したように美しかった。
ここにいる、と力強く存在を表現する煌めきに、頬が濡れた。
「母さんもこれを見たのかな」
だったら、寂しくなかったかもしれないな。
胸を温めた感情は激しい光にかき消されて、クリスの体は爆風に包み込まれた。
「救命ポッドを発見。移民船アヌビスの唯一の生存者と思われる」
救命ポッドを収容した移民船ネフティスの船員である女性は、スペースデブリのせいで変形した救命ポッドのパネルを操作した。
空気の抜けるような音とともに扉が開き、中を覗いた女性は目を丸くした。
「赤ちゃんだ」
「赤ん坊の後ろは空席だな。親はどうしたんだ」
後ろから男性が覗き込んで、たったひとりで宇宙をさまよっていた赤ん坊に眉をひそめる。
「スペースデブリに接触する前から破損していたのかも。乗りたくても酸素が足りなかったんだ」
「そうか……それにしても、デブリと接触しながら大破しなかったのは奇跡だな」
女性は泣きもせず指をなめている赤ん坊に微笑みかけて、シートベルトを外そうとしたが、そこに差し込まれた手帳に気がついた。
彼女は手帳を引き抜いて、今月のページに挟んであった写真を開く。
その裏側に記されたメッセージを読んでから、彼女は青い瞳を見つめて穏やかに微笑んだ。
「初めまして。勇敢なるプリンセス・トリッシュ」
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