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「次郎。こっからは、星が見えねなーぁ。波の音さも、聞ごえねーし」
暖かい膝の上で、もう何度となく聞いた言葉。
「帰りてーなぁ…」
そう言って、四角い窓から外を眺めると、空はただ暗く、等間隔に付いた街頭の明かりが辺りを照らしているだけ。
抱かれながらベランダに出て、暗い夜空の先を、次郎も一緒に眺めた。
星の数は少ないけれど、強い光を放つ星々だけは、田舎で見たものと同じよう。
あれは…何と言っていただろうか。
「あの星は…」
彼が呟いた星の名前。
見上げたこの星だけが、遠い遠い故郷と同じ光景を思い起こさせてくれる、唯一のものだった。
遠のく意識の中、そんな光景が頭をよぎった。
「次郎さん~、次郎さ~ん。寝ちゃいました~?」
能天気な謙信の声に、次郎は、自分がすっかり寝入っていたことに気が付いた。
ゆっくり目を開けると、目の前には、謙信の顔が迫っていた。
「近い!!」
瞬間、次郎は、猫パンチを繰りだした。
すっかり油断していた謙信は、次郎の猫パンチをまともにくらい、思わず頬を押さえた。
「次郎さーん、ひどいじゃないですかぁ」
「お前が覗き込むからだ!!」
憤慨しながら、目の前に置かれた、マタタビ酒を一気に飲み干した。
アルがいなくなって、もうどれくらい経っただろうか。
秋風に揺れていたコスモスは姿を消し、朝晩はすっかり冷え込むようになっていた。
主人と別れたのも、こんな冬の走りの頃だった。
「それで、あんな夢を見たのか・・・」
ひとりごちると、マタタビ酒の瓶を手に取った。
「次郎さん、もうこれくらいにしましょう」
次郎の手から、そっと瓶を取ったのは、華だった。
「ずいぶん飲んでいますよ」
心配そうに覗き込む華から顔を背けると、次郎は小さく息を吐いた。
「・・・・・・わかった」
その言葉に、華は嬉しそうに笑った。
「おつまみ、持ってきますね」
その後ろ姿を見送って、次郎は、再び大きくため息をついた。
アルが、猫集会に来なくなって、二か月が過ぎた。
みんな、気にはしているけれど、誰もそのことを口にしないのは、自分を気遣っての事だと解っていた。
『次郎さん!! 次郎さん!!』
アルの悲痛な声が、耳に焼き付いて離れない。
次郎は、空になった杯を、じっと見つめた。
「これで良かったんだ」
何度も何度も、自分に言い聞かせるように。
「次郎さん、おつまみをどうぞ」
差し出されたつまみに、次郎は手を伸ばす。
キャットフードに、マグロのお刺身。
毎回変わり映えのしないつまみだが、それを持ってきたのは、小さい猫。
「お前は?」
茶色の毛並みに、大きな耳。アーモンドの形をした、大きな瞳。
「誰かに似てるな…」
言われた猫は、黙ったまま、深く頭を下げた。
「いやぁ、次郎さん。この子、僕の息子です~」
言いながら、その背後に現れたのは、謙信だった。
「…お前、玉無しだろ?」
自然の摂理に合わないと、いぶかしげに見る次郎のまなざしを無視して、謙信は、相変わらずの弾丸トークでしゃべりだした。
「正確に言えば、甥っ子ですね~。いやぁ、秋にね、姉のところに子供が生まれたんですよ~。もう可愛くて可愛くて~。それでね、一人貰ってきたんですよ。ほら、僕に瓜二つでしょ。ご主人様も「こんなに似ているんだから、今度は二匹で、看板猫をやってもらおう!」って、そりゃあ大乗り気で! そんな訳で、十日ほど前から一緒に暮らしてるんです」
謙信は、その小さな猫に耳打ちをする。
「…景勝です…」
それっきり、何もしゃべらない。
「…似てないな」
「へっ?」
謙信が訝しそうに、次郎を見た。
「外見は似てるが、中身は正反対だ」
じっと、自分を見つめてくる真っ直ぐな瞳。
「…新入り、酒を持ってこい」
その言葉に、景勝は、こくりとうなづいた。
その瞳の中に、アルの面影を見たような気がして、次郎は小さく息を吐いた。
ふと見上げた夜空には、あの日見た星が瞬いていた。
『次郎、あれがオリオン座。大きいなぁ、次郎』
刹那、瞬く星が、じんわり歪んだ。
「次郎さん~、お酒、持ってきましたよ~」
能天気な謙信の声がしたが、次郎は上を向いたまま、目を瞬かせた。
「次郎さん、聞いてます~?」
顔を覗き込もうとする謙信に、次郎は思いっきり、猫パンチを食らわせる。
「聞こえておるわ、そこへ置いておけ!!」
「ひどいですよ、次郎さん、僕、なんかしました~?」
二回も猫パンチなんて…とブツブツ言いながら行ってしまう謙信を見送って、次郎は、杯を手に取った。
「乾杯」
誰に言うともなく、次郎はつぶやくと、一気に飲み干すのだった。
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