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「わかりました、じゃあ来週末までの納品でお願いします。その頃までに実験条件固めておきますので。」
梶 茉央は机を隔てて向かい合ったメーカー相手にテキパキと話をまとめて、そのミーティングを締めくくった。横目でチラリと隣の男を見ると、ボサボサの黒髪を無造作にかきあげ、左耳の軟骨ピアスを隠しもせずにあくびをしている。研究室の同期、そして何故か一週間前から彼氏になったらしい、井上 龍晶。苗字に比べて珍しい名前ゆえに皆、龍晶、と呼ぶ。
……仕方ない。
この男は興味のあることにしか労力を割かない。しゃべりもしない。元来、無口な男だ。そこそこ男らしい体つきと整った顔立ちに恵まれているな、とは思ってはいたけれど。
「しかし水谷教授も安泰だなぁ、こんなに優秀な学生がいるなんて。二人ともまだ院生1年目だろう?その二人に納品前の最終確認を任せてしまうなんてね。」メーカー側で実験機器の作成を担当してくれているリーダーの田中さんは、目尻に皺をたくさん作りながら笑った。
「いえ、モノグサなだけです。」釣られて茉央も笑う。田中さんとは何度も打ち合わせをしているが、この人の良さにはいつも癒やされる。
2人が所属する水谷研究室は、光学系の研究室だ。あらゆる物体の表面に微細加工をして、光の反射や透過の様子が変わるのを研究する。その実験装置ともなればかなりの精度を要求されるものだが、半年以上の開発期間をかけて、やっと完成までこじつけた。あとは納品を待つだけ。
2時間の実機試験では、龍晶が率先して動作確認をした。自販機3個分くらいの大きさの機器を前に、考えうる限り最速で最大の試験を効率良く済ませていく。たった数分で5つもの構造的バグを見つけた時には、流石にバケモノかと思った。茉央は龍晶と田中さんとの専門用語だらけのやりとりを理解し、メモを取るのが精一杯だった。
しかし、その後のミーティングでは立場が逆転する。茉央が段取り良く、改善事項やメンテナンスの手順、保証の範囲や納品までのスケジュールを確認している間、龍晶は一言も口を出さない。多分、どうでも良いと思っている。そのことに、茉央は若干苛立ちつつ、ある意味憧れを持って見やる。
……才能がある研究者は、結局異次元なのかも。
やっぱり、自分には研究職は向いてない。営業職だな、うん。茉央はその考えをさらに上塗りした。
ふと時計を見ると19時をまわっている。これから車で研究室に帰ると、21時は過ぎる。急ぐわけではないが、少し遅くなり過ぎてしまった。
一同はミーティングをお開きにして、工場の事務所の出口まで向かう。館内はあまりクーラーが効いていないはずなのに、どこかひんやりとしている。古い壁紙の貼られた薄暗い廊下にペタペタとスリッパの音を響かせながらロビーにたどり着く。自動ドアを背に二人でお辞儀をした瞬間、田中さんが声を上げた。
「今日はまた……ひどい。」
振り返ると外は真っ黒の、いや真っ白の……濃霧だった。
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