3.霧の箱根ターンパイクの場合

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 つい一週間前、茉央は龍晶と付き合うことになった。それもよくわからない、全く甘くない雰囲気で。  土曜、真昼の実験室。茉央は電子顕微鏡で撮影するためのサンプルを作るために、ミディアムヘアを無造作に束ねたままダイヤモンドカッターでプレパラートをカットしていた。天井まで届く実験棚を挟んで向かい側にいるのが龍晶だとわかったのは、話しかけられた低く平坦な声のせいだった。向こうは実験用の試薬を棚から探しているように見えた。 「……梶さん、今度の輪講、論文なんにした?」  輪講とは、研究室で行われる活動のこと。各自論文読んできて、その要点をまとめて発表する。当然のように全て英語なので、いかに読みやすいか、興味があるか、を重視して選ぶ。毎回本気でやっていると到底終わらない。 「彩雲における光の散乱に関するシミュレーション。」 「………それ、何か研究に関係あんの?」 「いや、綺麗かなって。彩雲。」 「そもそも彩雲って何。」 「……縁が虹色に散乱してる雲のこと。」  正直、茉央はそこまで熱心な研究員では無かったし、それを開き直ってもいた。研究が楽しくて大学院まで進学したが、研究職につくつもりもない。そろそろ理系推薦ではなく一般採用の就職活動を始めなければ、と思っている。  3年生までは、そんなことは無かった。むしろ実験や授業の予習復習にのめり込み、周りから引かれるほど。でも、男ばかりの研究室に所属し、本当の研究の天才という存在を知ってそれが崩れた。寝ても覚めても研究。それ以外のことはほとんど興味が無く、コミュニケーションもそれほどスムーズでは無い。それなのに、結果だけは出す。そういう存在の横にいると、いかに自分が器用貧乏だったか、気付かされる。それからは、一気に研究への熱意が冷めてしまった。  そして、まさにその理系の典型のような龍晶のことは、正直言って苦手だった。現に6人の同期の中で龍晶1人だけが、同じ研究室所属になってから1年以上経ってからも茉央のことを"梶さん"と呼ぶ。きっと向こうも、自分を苦手だ。そう思っていた。  それなのに、今思えばその日だけは何故か、グイグイと話しかけて来ていた気がする。 「………ああでも、確かに、雲の微粒子がどのくらいの密度になればスペクトル生むのとかは、気になるっちゃ、なるね。」 「……そんなんじゃ、無いって。」 「……梶さんて、面白いよね。」 「………。」  面白い、だって。それ、馬鹿にしてるのかな。既に国際論文3本超えの優秀研究生。  茉央は棚の向こうのセリフを無視して、丸椅子に座ったまま目の前のプレパラートに差し込んだカッターにグッと力を入れる。 「梶さん。俺と付き合わない?」  バキッ  プレパラートが、割れた。  実験棚を回り込んで、白衣姿の龍晶がこちらに来る。理系のわりにはそこそこおしゃれに着こなされた、黒いチノパンにベージュのTシャツ。好きに生きてるのを証明するかのような、やけに似合った軟骨ピアス。  机に半分よりかかりこちらを見下ろす龍晶を、ポカンと見上げる。 「……良い?」  良い?って……え?付き合う?え? 「え、あ、うん。」  そう言ってしまってから、とんでもない返事をしたことに気付く。が、もう遅い。 「マジか。よろしく。」  そう言って龍晶がすたすたと実験室を出て行く。 「ちょ、ちょっと………」  否定するなら今しかない。別に嫌いでもないけど、付き合うとか、そういうのじゃない。てゆーか、好きなの?……好きなの?  肝心なこと聞いてない!!  全然振り向かないその背を追うと、実験室のすぐ隣の学生居室に入っていく。  慌てて一緒に中に入る。何故か龍晶が居室にいる同期全員に向かってピースサインを掲げている。 「「「おおーーっ!!!」」」  男くさい歓声が上がり、全員が立ち上がる。 「マヒロ!ありがとう!良かったな、龍晶!!」 「いや〜ようやく実ったなぁ、長かったぁ」 「こいつのわかりにくさも半端ないけど、マヒロの鈍感さも散々だったもんなぁ」  勝手に盛り上がっている。  ……い、言えない。よくわからず返事しました、なんて。  くるりとこちらを向く龍晶。 「……よろしく。。」  ……ど、どうしよう。  そこから一週間、それまでより注意深く龍晶を観察して見ると、たまに目が合うことに気付いた。あと、茉央の発言に対して微かに笑うのが、皮肉ではなく微笑みであることも。それは、1ヶ月前に手酷い振られ方をした茉央の心を、少なからず溶かした。  そうこうするうちに、断る理由も見当たらなくなってしまった。  だからといって、納得したわけでもない。気持ちの整理が伴わないまま、"付き合っている"という事実だけが、宙ぶらりんに浮かんでいる。
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