40人が本棚に入れています
本棚に追加
市ノ瀬ましろの場合
「信用しているから頼むんだよ!」
これ以上のキラキラした言葉がこの世の中にあるのだろうかと、入社したての頃の私は、まるで魔法の言葉のように思っていた。この言葉ひとつで、モチベーションは恐ろしく上がり、どんなに忙しくても、仕事が楽しくて仕方なかった。
そんな、魔法の言葉に浮かれていたあの頃が懐かしい。不意に思い出した新人の頃の自分に小さく笑いながら、自動販売機の横で紙カップのコーヒーをすする。
出版社で働きはじめて今年で八年目。いつの間にか、魔法の言葉の効力は綺麗になくなり、そのキラキラとしていた言葉は重圧の言葉と化していた。
入社してまもなく、一年経たずに辞めていく同僚を数人見送り、さらには途中採用で気合いの入った先輩のような後輩をものの数ヶ月で見送った。結婚を理由に辞めていった先輩もいれば、精神的に疲れて来れなくなった後輩もいた。
とにかく、憧れていた華やかな職場、という勝手な固定概念とはほど遠い、戦場のようなこの場所に、なんとか食らい付きながら今日を送っている。
市ノ瀬ましろ、気付けば今年で三十歳だ。二十代の頃はがむしゃらに働きすぎてほとんど記憶がない、と言っても過言ではないほど忙しい毎日を送っていた。今になってようやく、ほんの少し余裕ができたと思ったら、周りは結婚だの彼氏だのと、浮かれた話しか聞かなくなった。
今のままでいいのか、と言うよりも、今まで仕事以外に何をしてきたのだろうと思っても、うまく思い返せない。おかげさまで、最後に恋人がいたのは、大学時代のたった数ヶ月が最後だ。
恋人がほしいというよりも、人肌に触れたいというふうに変わってきたのは、年齢的なものなのだろうか。
空になった紙コップを片手で潰し、ごみ箱に投げ入れる。気合いを入れるように大きく深呼吸をしてから、再び戦場へ戻る。
「市ノ瀬!」
自分の席に戻るや否や、相変わらずの大声、いや、叫び声に肩が上下した。椅子に座る事なく呼ばれた方へ向かって返事をすると、私の顔も見ずに手まねきをしている。間違いなく、片手に持っている一枚の紙切れのせいである事は、ものの数秒で理解できた。
「なんでこうなるんだよ!?」
どっかりと椅子に座ったまま、下から私のことを睨みつけているのは、編集長の宮元大志だ。ちなみに彼は、私より三つ歳上だ。
「すみません! すぐに見直します!」
言いながら頭を下げた。
編集長の主語がない物言いには慣れたけれど、それでもやっぱり、何がどうなのかをきちんと言ってほしい。もちろんそんな事、言えるはずがない。
「今は話してる時間なんてないから、とにかくあと五分でなんとかしろ!」
「分かりました!」
最初のコメントを投稿しよう!