しゃがみ

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「じ、実は怖いのは苦手なんすよ……先輩は平気なんすか?」 「まあな、でも住宅地のど真ん中で幽霊がホントに出るわけないだろ。雰囲気だよ雰囲気」  それもそっすね、と後輩のこの女は車のシートにもたれ、にっこり笑った。  『しゃがみ』という化け物が、ある住宅地に出る――そんな噂を聞いたのは数日前だった。  姿形はよく判らないが、ある順序で角を曲がっていくと、一番奥に『しゃがみ』こんでいるらしい。  そして、そいつをカップルが見てしまうと、絶対に別れてしまうらしい。  だから俺は、この女を『幽霊を見に行こう』と騙して連れてきたのだ。  俺がこの女と付き合い始めたのは、数か月前。体の相性も良く、従順で献身的。頭もあまりよろしくない、理想的な女だ。  で、俺は何を血迷ったのか、ある日、この女との結婚を考えているのに気が付いた。  まだ大学の四年で、まだまだ遊び足りないのに、だ。  何故一瞬とはいえ、結婚を考えたのか?  それは、この女があまりに都合がいいからだ。  金と時間をつぎ込んで女を攻略するのは楽しいが、面倒でもある。  ならば、そういう事を卒業するために結婚し、もっと他の事に金と時間を注ぎ込んだ方が人生楽しいのではないか。  それにはこの女がぴったりなのだ。  勿論、結婚ともなればそれ相応の面倒さも舞い込んでくるかもしれないが……。  さて、一体、どちらが俺にとって得なのか?  そんな時に『しゃがみ』の噂を聞いた。  それはいいな、とすぐに思った。  俺自身、そんな噂は全く信じていないが、こいつを連れて行って、呪いだか祟りだかで別れることになるならば、それでいい。  何もないならば、それでもいい。  ちょっと変わったギャンブル、暇潰しの神秘的なルーレットというわけだ。 「せ、先輩、懐中電灯持ってこなかったんすかぁ?」  後輩の女は不安そうな声を出している。すでに日が変わり、住宅地の窓は軒並み暗く、ひっそりとしていた。 「そんなの持ってたら不審者と思われるっつーの」  俺はそう言って、十字路を右に曲がる。 「あ、ちょっと待ってくださいよ。うわっ!? 今そこで何かが――なんだ猫か……」  俺は構わず次の角も右に曲がる。  やけに明るい街灯の下で、大きな蛾がぶんぶんと飛び回っている。確かに雰囲気はあるが、如何せん住宅街だ。壁一枚隔てた向こうに人がいるのが判っていると、怖さもクソもない。  暇潰しにもならないかと、俺はため息をつくが、とにかく奥まで行ってみようと考え――後の足音がないのに気が付いた。  振り返ってみると、動くものはなく、音もない。  どこかに隠れて、俺が探しに来たのを脅かす気か。  そういうガキっぽい所は面倒――おお、これは『しゃがみ』のご利益か? 結婚をしたくないと一瞬考えたぞ。  俺はにやにやと笑いながら、再び角を曲がり、更にすぐの角を曲がる。こうやって次々に現れる角を右に曲がっていけばいいらしいが――  妙だ、と俺は再び振り返る。これだけ右に曲がったなら、普通の住宅街なら元の場所に戻るはずだ。こんな回廊のように延々と曲がるのは――  次の角を曲がると、それがいた。  『しゃがみ』  確かに、路地の奥に『しゃがんで』いる。  女。  しかも半透明。  おまけにババアだ。  真っ白な髪と曲がった背中。良い服を着ているが、こっちを見ている顔は皺だらけ。にやにやと笑っているのは、不気味というよりも哀れだ。歯もほとんど無い。  俺は腰を低くし、視線を下げた。  どろんとした目。  浅く速い呼吸。  漂ってくる年寄りの臭い。  しかし――妙な既視感が――  俺は気が付いた。  驚いた。  だが、間違いない。  こいつは、あの後輩の女だ。  さっきの車の中での笑顔と、目の前のにやけた顔がダブって見える。  そして――多分死にかけている――いや、死に際の姿がこれなのだ。  はは、成程。  こういうことか。相手の死に際が見れる――確かにそれじゃあ――  『別れる』な。 「まったく、先輩ってわがままですよね! あたしを置いてどこかに行っちゃうんだから!」  シートにもたれ怒ったふりをする後輩の女に、俺は笑いかけた。 「ごめんな。飯をおごるから勘弁してくれ」 「じゃあ、今からファミレスに行きましょう! あたし、お腹が減っちゃって!」 「ははは、太るぞ」  俺はそう言って、前に視線を戻す。  まあ、太ろうが痩せようが俺には関係ない事だ。この女の行きつく先はあれなのだ。  さて、どのタイミングで別れるか――どうせなら、もう少し楽しんでからでも―― 「それにしても――」  後輩の女は、そう言って首を傾げた。 「先輩、なんであの路地の奥で『しゃがんで』たんですか? お腹でも痛かったんですか?」
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