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♯9 清貧の夕暮れ
彼女はカレーライスを盛った皿をテーブルに置いた。白米とカレーの濃厚な香りがふんわりと辺りを支配する。私は女性の部屋にあがるという初めての行為の緊張からか、忘れていた空腹感をその時思い出した。
「食べて食べて」
私は言われるままほおばった。目の前の料理は美味いのか、そうでないのか。どちらにしても私の返答は変わらないが出来れば嘘はつかず、素直な気持ちを言葉にしたい。
しかし私の心配は杞憂に過ぎなかった。私は夢中でスプーンを口に運んでいた。
「どう?」彼女はなおも私の表情を伺っている。私はようやくスプーンを止めた。
「おいしいよ」
実際、嘘偽り無くそれは美味だった。私の言葉に彼女は表情を明るくし、それとともに空気すら明るくなった。
彼女は純粋だ。
これまで些細な事に目を奪われ、不必要なまでに彼女を慮った自分を何故か妙に恥ずかしく思った。とにかく物事を複雑に眺めそのくせときに信念的になる自分が幼く感じる。直面した事を素直に喜び、悲しみ、笑う事ができる成美は私にとってそれだけで魅力がある。彼女は純粋そのものだった。
夕食も食べ終わり、私たちはひとしきり世間話をした。大学での話、仕事先での話、夢の話。どれも若い私たちには尽きなかった。
しばらくしてコーヒーを飲もうという事になり彼女が席を立った。やがて彼女がコーヒーを運んでくると、もうカレーの香りは立ち消え、変わって芳醇なコーヒーの香りが鼻先をくすぐる。私は一口飲むと、その深い味に舌鼓を打った。
「コーヒーいれるのうまいね」
「そう?ありがとう。普段は私しか飲まないからあまりいれないんだけど」
しばらく私達はその香りの中を楽しんでいた。そのうちどちらからとも無く再び世間話になり、様々なことを話した。やがて思い出したかのように私は言う。
「そういえば休みの日はいつも何しているの?」
私と成美は同じ仕事をしている為、二人同時に休むのは週に一度あればいいほうだった。つまり、二人で会うのは週に一日だけなのだ。ただ他の曜日にもお互いそれぞれ休日がある。私もほとんど仕事と大学の往復に明け暮れていたといっても過言ではないが、それでもたまには丸一日休みを取り一人で買い物に出かけるときもあった。私と会わない休み。要するに一人の時はどうしているのか、私の素朴な疑問だった。
「何もしていないよ」
私は一瞬、彼女に落ちた陰を見落とさない。これが時折見せる彼女の悲しい表情だった。
「コーヒー、おかわりいる?」
取り繕うように話頭を転じるのもいつもの事だった。私はそれ以上深入りはしない。どんなに親しい間柄でも入り込まれたくない部分はあるはずである。
しかし彼女の家という閉鎖された空間がそうさせるのか、それとも始めからそういうつもりだったのか定かではないが、この時ばかりは私もつい二歩目を踏み出していた。
続く
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