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診察室のドアは遠慮がちにノックされた。
「どうぞ」
中から声がしたのに聞こえなかったのだろう。ドアは再び「コンコン」と叩かれる。ドアノブを下げて扉を開けたのは白衣の女性看護師だった。奥には白衣を着た医師がどっかりと椅子に座ってカルテを見ている。明美は力なく患者用のスツールに座ると、今朝からの症状を説明した。
今朝、明美に病院を診察するように勧めたのは会社の同僚だった。正確には同僚も上司も知人も、今日会った人は明美の顔色を見て心配して言った。
「明美さん、熱あるんじゃない?顔色悪いから、病院に行ったら?」
この会社に勤めはじめてもう10年になるだろうか。今まで健康には自信があったし、仕事を中抜けして受診するのには抵抗があった。でも、昼食が喉を通らず、無理して飲んだコーンスープは全部戻してしまった。パソコンのモニターに目眩がして仕事が手につかない。明美はようやく内科を予約すると、診察のための早退を上司に願い出た。
「点滴して元気になったら、戻って残りの作業します。」
休むとは言えなかった。この時まで仕事のことで頭がいっぱいいっぱいだった。
問診、検温、聴診器、採血。一通りの検査が終わり、看護師の白い腕が再び明美を招き入れる。
「感染症も貧血も、心配はありません。」
医師が言った。
「疲れからくるものでしょう。ビタミン剤の点滴をしましょう。」
明美は病院のベットで横になる。看護師が静脈を探す間、薬指の結婚指輪がふと目に入った。てきぱきと動く彼女は自分よりもだいぶ若く見える。明美は目を瞑る。疲労困憊しているはずなのに、他人の既婚が気になってしまうだなんて…
「針刺しますね。」看護師が言った。
金属の針が透明な点滴チューブに差し替えられ、輸液が開始される。
「ポタリ。ポタリ。」
点滴筒を落ちる音に聞き入る。実際には小さすぎて聞こえない筈だが、滴を見ていると音が聞こえる気がする。心拍よりも少し遅い、心癒されるスピードだ。明美は看護師に尋ねた。
「時間はどれくらいかかりますか?」
看護師は腕時計で滴のはやさを測りながら答えた。
「ええと、一滴が50μℓで液量が16mlだから。あと5分ですね。」
看護師は隣の部屋に行ってしまった。明美は再び目を閉じる。こうして横になっているうちに、社に戻ってからの資料作りの手順を考えるつもりだ。
だが、頭に浮かんだのは母からの電話の内容だった。
「今月末の日曜日に孫のメイちゃんの3歳の七五三のお祝いをするのよ。あんた出産以来会ってないでしょ?久々に家に帰ってきたらどう?」
母はちょっと押し付けがましい。
これでも、抑えている方だ。仕事を理由に、今年はまた一度も帰省していないし、兄夫婦にはもう3年近く会っていない。姪のメイちゃんには、出産以来会っていないから、私のことをメイちゃんは知らない。
母はメイちゃんのお祝いの衣装のことで、やたらと電話をよこしてきた。
「ねえ明美、覚えている?あなたが7歳の七五三で着た着物のこと。私もおばあちゃんも赤にしなさいって言ったのに、どうしてもあなたはピンクがいいと言い張って…」
「メイちゃんのことで相談」と言いながらも、母の話はもっぱら自分の昔話だ。締め切りで頭がいっぱいな私は、ただハイハイと聞き流すだけだった。
「ポタリ、ポタリ。」点滴は時間を刻む。
兄が結婚してもう何年になるだろう。兄と私は普通に仲の良い兄妹だったし、兄嫁との仲も最初良好だった。結婚前には彼女も一緒に家族旅行に行ったし、一時期は頻繁にメールでやりとりもしていた。
「ポタリ。ポタリ。」
4年くらい前だろうか?家族全員が集まった時、兄嫁は奥の部屋に籠ったきり出てこなかった。一度も笑顔を見せずに額にしわを寄せる彼女は別人に見えた。その後何度か顔を合わせたが、彼女はいつも上の空でじっくり話をしていない。以来、兄夫婦とはなんとなく疎遠だ。手紙やメールのやり取りも途絶えてしまっている。
「ポタリ、ポタリ。」
気づけば兄が結婚したときの年齢を、自分はとうに過ぎている。友達も次々に結婚して、家庭を持った。友人たちと会った時、いろいろな話題で盛り上がった。夫のこと、家庭のこと、子供のこと。環境が変われば話題も変わる。明美は思い返した。今なら兄嫁の当時の気持ちもわかるような気がする。
「ポタリ。ポタリ。」明美は目を開けて点滴を見つめる。ずいぶん時間が経ったと思ったのに、まだ5分経っていなかった。
今にして思えば、4年前の兄嫁は見た目には分からないながら妊娠初期で、つわりで苦しんでいたのかもしれない。子供が生まれて気が散っていたのは、自分を無視してたからじゃない。本当に赤ちゃんのお世話で兄嫁はいっぱいいっぱいだったんだと。家庭を持った友人が、すっかり変わってしまったように。
「ポタリ、ポタリ。」明美は再び目を瞑る。
「終わりましたね。ご気分はいかがですか?」
先ほどの看護師が呼びにきた。チューブを抜いて止血をすると、明美は促されて立ち上がる。めまいもしないし、なんだかお腹も空いてきた。気分はすっかり良くなって元気いっぱいだ。
明美は、職場に連絡を入れる。
「まだ気分がすぐれません。今日はこのまま直帰します。」
今日は、やりたいことができたのだ。
今度は実家に電話する。メイちゃんのお祝いについて相談するためだ。
「明美だけど、お母さん元気?メイちゃんの七五三に私も参加するわ。」
「仕事の方は大丈夫なのかい?休む時は休んで、ちゃんと食べているかい?
メイちゃんすっかり可愛くなったわよ。お着物の色ね、水色がいいんですって。お母さんも私も、赤かピンクを勧めたんだけどね…」
完
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