ダブルバインド

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ダブルバインド

 遠い意識の彼方から、光が近づいてくる。  起床の音楽に眠りを払われ、花梨は目を覚ました。  体を支えているのは敷布団ではなく、リビングのソファ。昨夜、警察に通報しようか迷っているうち、服用した薬が全身を巡り、倒れ込んだソファで眠ってしまったらしい。  ふと見れば、床にはスマホと健悟のカバンが投げ出されている。黒い皮のカバンについている木彫りのストラップは、付き合ったばかりの頃、健悟にあげた十勝のお土産だ。  健悟は昨夜、ここへ来た。  ひどく酔って、外で喚いていた。  ドアを蹴り、男を出せと怒鳴っていた。  けれど一瞬のうちに忽然と姿を消したのだ。  "そいつは俺が片づけてやるよ"―――   得体の知れない"誰か"が、そう呟いた直後に。 「健悟っ……」  花梨は自分の両腕を抱きしめた。執拗な真夜中のメールは、てっきり健悟の嫌がらせだと思っていた。しかし完全に思い違いをしていたようだ。健悟は犯人じゃなかった。  だったら、一体誰?  闇に潜んでいるのは誰なの?  沸き立つ恐怖は、寝起きの頭を揺さぶり起こすほど激しいものだった。花梨はソファから身を剥がすように起き上がり、床を這ってスマホを手に取った。目覚ましを止めると、肌寒い静寂が室内にひっそりと沈む。  健悟はどうなったんだろう。  花梨は恐る恐るメールを開いた。見知らぬ男から届いた不気味なメッセージが残っている。男が宣言した通り、健悟は目の前から消え去った。ドアの外に、存在感だけを残して。  背筋が寒くなった。吐き気がする。目の前が白く霧がかって、意識が侵食されていくような気がした。あれほど嫌悪していた元彼が、今は心配でたまらない。込み上げてくる不安と焦燥感に突き動かされるように、花梨は慎の電話番号を呼び出した。  こんな朝早くに迷惑だと思ったが、得体の知れない男によって健悟がさらわれた今、頼れるのは慎だけだ。  震える指で慎の番号に触れる。電波は瞬時に相手の携帯電話を捕まえ、呼び出している。花梨は両手でスマホを握り締めながら、耳に慎の声が伝わるのを待った。まだ寝ているんだろう、中々電話に出てくれない。海に浮かぶ流木にすがるような気持ちで、呼び出し音が途切れるのを待っていたそのときだった。 『――もしもし、花梨さんっ?』  ようやく繋がった。耳に届いた慎の声が、恐怖で固まっていた体のこわばりを溶かしてゆく。安心したら冷や汗が出てきた。花梨は喉に詰まっていた息を吐き出して、スピーカーの向こうに叫んだ。 「先生っ、朝早くにすみませんっ。あのっ、私っ、昨夜は眠ってしまって、電話しようと思ったのにっ……」 『花梨さん、落ち着いて下さい』 「ごめんなさいっ、昨夜私っ、あのっ、ドアの外にっ、メールがっ」  焦りで言葉がもつれ、上手く並べられない。しどろもどろで話していたところに、慎の冷静な声が刺さり込んできた。 『もしかして花梨さん、僕に松浦さんの事で電話してきてます?』 「ええっ!?」  背中を叩かれたみたいに一瞬息が詰まった。 「どっ、どうしてわかったんですかっ?」 『実は僕も、花梨さんに電話しようと思ってたんです』  耳から伝わる慎の声にも、ただならぬ緊張感が漂っていた。ふと冷静さを取り戻すと、慎の背後がやけに騒がしいことに気づいた。外にいるんだろうか。たくさんの人間が動き回る気配に、いきなり救急車のサイレンが重なった。 「先生っ、今どこにいるんですかっ?」  その質問に慎は答えなかった。落ち着ているが、どこか淀みがちに言う。 『今朝、クリニックの前に松浦さんが倒れてたんです』 「健悟が先生の所にっ!?」  心臓に鋭い痛みが走る。花梨は愕然とした。昨夜、突如としていなくなった健悟が、なぜ慎の家の前にいたのか見当もつかない。わかっているのはただ、メールを送りつけてくる得体の知れない男が、健悟をさらい慎の家に放置したという事実だけだ。 『松浦さんはケガをしていて、僕が救急車を呼びました。容態は安定していますが意識がなくて……』 「意識がないッ!? 健悟は大丈夫なんですかっ? 生きてるんですよねっ?」  自分でも無意識のうちに健悟の無事を確認していた。数時間前まで警察に突き出してやろうと思っていた憎い相手なのに、救急車のサイレンを聞いた途端心が慌ただしく波打った。 「先生っ、健悟のケガはどんな感じなんですかっ? 病院はどこですかっ?」 『わかりません』  対照的に慎は冷静だった。 『今搬送されたところなので、病院からご家族に連絡が入ると思います』 「実は健悟っ、昨夜ここに来たんです!」 『花梨さんの部屋に松浦さんがっ!? 大丈夫ですかっ? 何もされてませんかっ?』  こんな状況でも心配してくれる慎の優しさに、泣き出しそうになる。スマホを握りしめたまま、ぐっと涙をこらえて花梨は頷いた。 「私は大丈夫です、ドアを開けませんでしたから。ただ健悟の方はひどく酔っていて、外で暴れてたんですよね。私が先生を部屋に連れて来てると思ったみたいで、男を出せって怒ってました。ドアを蹴りながら騒いでいたので、警察に連絡しようとしたらその時に――」  またあの不気味なメールが来たことを伝えようとしたが、突然割り込んできた男に会話を邪魔された。慎の背後から「失礼」と呼びかけた渋い声の男が、何やら神妙な口振りで喋っている。周囲がうるさくてよく聞き取れないが、男は慎に同行を求めているようだ。 『すみません、ちょっと待ってて下さいね』  心地の悪い空白が胸をざわつかせる。スマホの奥からは、慎と男のやり取りが微かに聞こえていた。どこか緊迫した空気が、スピーカーを通して伝わってくる。 『花梨さん……』  再び慎の声が鼓膜を弾いた。けれどいつもの柔軟さはなく、口調も硬い。 『話の途中ですが、一度電話を切ります』 「どうしたんですかっ?」    思わずきいた。慎は迷っているかのように沈黙した後、口重たげに告げた。
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