ダブルバインド

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 レンガ畳の通路を通り、ドアの前に立った。冷たい外気に触れた吐息が、白く濁っている。震える指でインターフォンを押して、花梨は愛しい声が聞こえるのを待った。数秒の間隔を空けて、スピーカーの奥から気配が伝わってくる。響いた声は、動揺で揺れていた。 「はい……えっ、花梨さんっ!?」  急き立てられるようにして、花梨は喉から声を押し出した。 「せせ、先生っ……と、突然来ちゃって、すみませんっ……」 「ちょっと待ってて下さい!」  慌ただしい気配が近づいて来る。カギが開くのと同時に、ドアが開いた。室内の明かりが一気に視界を覆い、闇に慣れた眼球をチクチクと刺してくる。だがそれも一瞬のこと。玄関の明かりを遮るように、慎が目の前に立った。モニター越しに見た以上の痛ましい姿に驚いたらしい。息を引きつらせた慎の唇が少し震えている。 「花梨さんっ、ずぶ濡れじゃないですか!」 「あああ、あの、わわ私っ、先生にっ……」 「とにかく中に入って下さいっ」  話を遮った慎に玄関の中へ引き込まれた。ドアが閉まった瞬間、雨風の轟音が消え、静かになる。入れ替わるようにして慎の悲痛な声が響いた。 「これはヒドイっ……こんな雨の中を歩いて来たんですかっ!?」 「びょ、びょびょ病院かららら、ババ、バスにのの乗ってっ……」 「話は後にしましょうっ、まずは体を温めないとっ」 「先生っ」  腕を掴んで家に上げようとした慎を、花梨は咄嗟に引き止めた。熱い想いが胸を突き上げる。目覚めてからずっと渇望していた温もりが、腕を掴む掌から伝わっていた。壊れそうになる自分を支え続けていた存在を見上げ、寒さで固まった唇を必死に動かしながら花梨は告げた。 「わわ、私っ……ちゃ、ちゃんと言えましたよっ」 「……言えた……?」  訝しげに呟いた慎に向けて、花梨は微笑んだ。上手に笑顔を作れているか自信はないけれど、ありったけの力を振り絞って笑ってみせた。 「わ、私っ……健悟にっ、ああ、会ったんですっ」 「松浦さんにっ!?」 「会って、はっきり言いましたっ……自分の気持ちっ……私はっ、西園先生が好きだって」 「――!!」  まるで雷にでも打たれたみたいに慎の顔が強張った。花梨にとって、元彼と対面すること、自分の気持ちを伝えることが、どれほど勇気のいる挑戦で、どんなに高い壁であったのか、誰よりもよく知っているからだろう。慎は完全に言葉を失くしている。 「先生、私……あ!」  慎の唇から苦しげな吐息がもれた直後、乱暴なまでに激しく抱き寄せられた。半ば倒れ込むようにして傾いた体が、慎の胸にすっぽりと収まり、息が苦しいぐらい強く締め上げられる。もう感覚さえなくなっている肌を優しい温もりが包み込み、甘い切なさが胸を震わせた。 「先生……?」  慎は何も言わない。ただ強く抱き締めているだけ。なのに、叫ぶような慎の情愛が心に響いてくる。力がこもる腕からも、耳朶を掠める吐息にも、触れ合う全てから慎の想いが伝わってくる。花梨はほっと息をついた。 「せ、先生……ぬぬ、濡れちゃいますよ……きゃっ!?」  いきなり体がふわりと浮いた。思わず花梨は悲鳴を上げた。慎に片手で両肢を持ち上げられ、突然お姫様だっこされたのだ。両足から勢いよく脱げた靴が転がるも、慎は気にもせずリビングを通り過ぎてバスルームへ進んでゆく。 「ああ、あのっ、先生っ」 「このままじゃカゼをひきます」  言った時には既に、脱衣所についていた。以前に泊まったことがあるので、バスタオルの場所なら知っている。だがタオルは必要なかった。慎は浴室に入ると、花梨を下ろすなりシャワー全開にしたのだ。 「ひゃっ!?」  花梨は肩を竦めた。温かい湯の雨が頭上から降ってくる。冷えた衣服が張り付いていた肌は敏感で、ぬるま湯程度の温かさでも今はひどく熱く感じた。その温度差から体を守るようにして、再び慎が抱き締めてくる。当然、頭からシャワーを浴びる慎もびしょ濡れだ。 「せせ、先生までっ、ぬぬ濡れてっ……」 「いいんです」  耳に伝わる慎の声は優しかった。もう何も言うなというように息をついて、背中を撫でながら囁きかけてくる。 「こんなに体が冷えて……震えてる……僕が温めてあげます」  慎がゆっくりと体を離し、上から見つめてくる。花梨はそっと顔を上げて、シャワーに濡れた慎を見つめ返した。筋の通った鼻先から雫が滴り、眼鏡の縁を通って水滴が流れ落ちている。濡れた前髪の奥から覗く熱い視線に、冷えた体が火照り始めるのを感じた。 「先生……」 「口を開けて」  親指で唇を撫でながら慎が言う。その優しい手つきは、昨夜、車内で受けた欲情的な触れ方とは違う。繊細で、慈しみ深く、熱っぽい。花梨は言われるままに唇を開いた。冷えて硬くなった唇は小刻みに震え、吐く息も共振している。 「ぁ……」 「もっとです……もっと、大きく」  近づいてくる慎の唇をとろんと見つめながら、花梨は素直に口を広げた。開いた唇の縁から、シャワーのお湯が流れ込んでくる。それを塞ぐようにして、慎の唇が重なった。柔らかい唇の感触が全身を熱くさせる。花梨は何とか鼻で呼吸しながら、されるがままに身を任せた。  降りしきるシャワーのお湯と慎の舌が、同時に口の中に入り込んでくる。長くて肉厚の舌はお湯と唾液の中を泳ぐように動き、甘い痺れを広げてゆく。花梨は両腕を慎の首に回して体にしがみ付いた。今にも力が抜けて膝から崩れそうだった。慎は素早く片腕を花梨の腰に回して支えながら、ゆっくりと体重をかけて座らせていった。 「先生っ……はふっ、あっ……!」  花梨が床に尻もちをついたのと、慎が床に膝をついたのは同時だった。真上からシャワーが降り注ぐ中、花梨の背中を壁にもたれさせ、覆いかぶさるようにしてキスを深めてゆく。この熱さは何だろう。まるで喉へ熱湯を注ぎ込まれたような灼熱が全身の血を沸き立たせる。
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