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諦めたのか、慎はしょんぼりと立ち上がった。一旦はキッチンに引っ込んだが、すぐに戻ってきた。目の前にしゃがみ込んだ慎の手には、別の貢ぎ物が添えられている。
「これ、頂き物なんですけど、いかがですか?」
「!」
花梨は思わず二度見した。婚約指輪でも差し出すかのごとく捧げられたのは、冷たい高級スイーツだ。
「うわっ、すご~い! ゴディバのアイスクリームだぁ~っ……あ゛!!」
興奮してつい叫んでしまった。慌てて口を閉じたがもう遅い。対面では慎がクスクス笑っている。
「花梨さんの好きな苺味ですよ。ほら、食べましょ? 湯上りのアイスは最高ですよ」
「……」
花梨は唇を尖らせた。迂闊だった。滅多にお目にかかれない憧れのデザートを前に、うっかりはしゃいでしまった。その様子を微笑ましく見ていた慎はアイスをスプーンですくい取ると、にこやかに口の前に差し出してきた。
「はい、どうぞ」
「……いただきます」
もはやどんな顔で抗議しようとムダだろう。花梨は潔く降参して、アイスをパクリと頬張った。芳醇な甘味と苺の風味が、ひんやりと喉を通っていく。
「おいしいですか?」
「……おいしいです……」
「それは良かった」
ほっと息をついた慎が、嬉しそうに微笑んだ。たぶんアイスがなくても無言の抗議は長く続かなかったと思う。こんなに優しい笑顔を向けられたら、自然と顔が綻んでしまう。
「先生は食べないんですか?」
「ん〜……僕はいいかな。今は花梨さんが食べてるところを見ていたいです」
言いながら、慎が隣に座った。アイスを持った方の腕で肩を抱いてくると、また一口分をスプーンですくい、唇に寄せてくる。
「溶けないうちに食べましょう。僕がお手伝いしますから」
花梨はそっと笑顔を見上げた。前髪に半分隠れていても、優しい目をしているのがわかる。慎の温かい腕の中で、花梨は子供みたいにぱくんとアイスを食べた。高貴な苺の味より、慎に甘やかされている事に甘酸っぱさを感じる。
「花梨さんも今日は大変でしたね。甘い物は精神疲労を和らげる効果があるんですよ。でも一気に食べると血糖値が上昇して体に負担がかかるので、ゆっくり食べて下さいね」
「私よりも、先生の方がずっと疲れてるはずです」
決して口先だけの気遣いではなく、花梨は本当にそう思った。今朝慎に電話をしたのは7時頃だったが、あの時点で既に、ここは事件現場と化していたのだ。健悟が発見されたのはもっと早い時間だったのだろう。その後、慎は警察の任意同行に応じ、帰ってきてからは休憩時間もなく予約の診察を続けた事を考えれば、疲れていないはずがない。
けれど、慎は疲労を少しも感じさせず穏やかに答えた。
「僕なら大丈夫ですよ。疑いは晴れたので。花梨さんの方こそ昨夜から気が休まらなかったでしょう。いきなり松浦さんが家に押しかけて来たり、行方不明になったり……花梨さんの心労に比べたら、僕はどうってことないです」
言いながら、慎が深く息をついた。
「昨日初めて松浦さんに会いましたが、その時にわかりました」
「わかったって、何がですか?」
「花梨さんはまだ、松浦さんの精神的支配から抜け出せてなかったということです」
口元を引き締めながら慎が言う。
「松浦さんの些細な感情の起伏に敏感な反応を示す花梨さんを見て、完全に精神が解放されるにはまだ時間がかかると思いました。だから、花梨さんが自ら松浦さんに会いに行き、本音で話したと聞いた時は胸が詰まりました。簡単なことではなかったはずです。自分を苦しめた心因と向き合うのは」
慎の言う通り、健悟と対峙するのは苦痛でしかなかった。それでも会いに行ったのは、自分の気持ちにケジメをつける意味もあったが、もっと大きな理由があったからだ。病室で聞いた健悟の言葉を思い起こしながら、花梨は静かに打ち明けた。
「先生、私が健悟に会いに行ったのは、もちろん過去と向き合うためだったんですが、他にも理由があるんです」
「他の理由?」
訝しげな慎を見上げて、花梨は小さく頷いた。
「実は、健悟がドアの外で喚いていた時に"俺が片づけてやる"ってメールが届いたんです。その直後に健悟がいなくなったので、メール男の仕業だと電話でお巡りさんに言ったんですけど……」
「ええ、その件は僕も警察署で聞きました。でも警察官はメール男と松浦さんの件は無関係だと考えていたようで、ほとんど関心を寄せてませんでしたよ」
「もしかすると、警察官が正しかったのかもしません……」
「え?」
意味がわからないという様子で慎が沈黙する。花梨は全て伝えた。健悟は酔っていてほとんど覚えていないこと、後ろから首をしめられて気を失ったこと、犯人は女だと健悟が断言したこと……。
「でも私はメールの送り主が女性だとは思えないんです。根拠はないんですが、とにかく相手は男だと思うんです。けど、そうなると健悟を襲った相手はメール男じゃないことになるんですよ」
「松浦さんに恨みを持つ女性の犯行、ということですか?」
花梨は小さく首を振った。
「わかりません。あんなんでも健悟って女性ウケするので、私と付き合う前にも交際していた人の1人や2人いたでしょうし、ああいう性格ですから恨みはたっぷり買ってると思います。誰かに襲われても驚きません」
「でも、いくら酔っていたとはいえ、女性が男1人を失神させて拉致したとは考えにくいですけど……」
「メール男と共犯だったのかも。襲ったのは女で、運んだのが男とか」
低く唸りながら、慎はぽつりと言った。
「まぁ、その可能性もなくはないですが……いずれにせよ、1つはっきりしましたね」
「はっきりって?」
見上げた先では慎が悩ましい表情を浮かべている。何か考え込むように深く息をつくと、口重たげに呟いた。
「真夜中に花梨さんへメールを送っていた人物は、松浦さんではなかったということです。僕も松浦さんだと思い込んでいたので悠長に構えていましたが、相手が正体不明の第三者ということなら手を打たないと危険です」
「でも先生、手を打つといっても警察は動いてくれませんよ」
少し沈黙した後、慎は陰気な空気を振り払うように微笑むと、溶けかけたアイスをスプーンですくった。
「そっちは僕が何とかしますので、花梨さんはあまり心配しないで下さい。とにかく今は不眠症の治療に専念ましょう……はい、もう一口」
唇の前に差し出されたスプーンと慎の顔を、花梨は交互に見やった。寸前まで暗い話題に強張っていた心が柔らかくほぐれてゆく。腕に抱かれながら甘やかされて、花梨はくすぐったい気持ちでアイスを頬張った。冷たくて、甘酸っぱいミルキーな風味が口の中に広がった。
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