ダブルバインド

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 高級アイスを食べる様子を、慎は微笑ましく見つめている。つられて花梨も微笑んでしまった。なんて幸せなひと時だろう。今日一日の辛くて苦い記憶が、アイスと一緒にすぅっと消えていく。 「ところで花梨さん、昨夜のことでお聞きしたいことがあるんですが……」 「何ですか?」  紙容器の中のアイスは、上の部分がクリーム状に溶け始めている。その部分を丁寧にスプーンですくいながら、慎が妙なことを口にした。 「夜景を見ていた時、あの……僕が、急に体調を崩して……それから……その後って、どうしましたか?」 「は?」  花梨は凝然と慎を見上げた。一瞬、言葉の意味がわからなかった。 「どうしたって……先生に家まで送って頂きましたよね? 急に苦しみ出したので慌てて救急車を呼ぼうとしたら、先生が『もう治まったから大丈夫、時々こんなことがあるんですよ』って言って、私を送り届けてくれたじゃないですか」 「……」  一体どうしたんだろうか。それまでニコやかだった慎の表情が少し曇っている。変なのは様子だけじゃない。"その後どうしたか"、なんて質問自体も奇妙な話だ。花梨は訝しげに慎を見返した。 「ねぇ先生、何か持病があるんでしょう? 心臓の病気ですか?」 「……」  慎は黙ったまま何やら考え込んでいる。すくいとったアイスが、スプーンの上でどろりと溶けてカップに落ちた。 「先生?」 「あっ、はいっ」  ふと我に返ったように慎が顔を上げた。 「すみませんっ、ちょっとぼんやりしてしまって……えっと、持病という程ではないんですが、たまに息苦しくなることがあるんです。軽い呼吸器疾患ですよ。花梨さんに伝えておけば良かったですね。驚かせて申し訳ありません」 「いえ、私はただ先生が心配で……とても苦しそうだったから、どうしたらいいのか焦っちゃって……」 「大丈夫です」  そう答えた慎の笑顔はどこか硬かった。 「さてと、そろそろ洋服が乾いた頃かな。乾燥機から出してきますので、花梨さんは残りをどうぞ」  花梨は症状について詳しくたずねようとしたが、薄く微笑んだ慎は溶けかけのアイスを手渡して脱衣所に行ってしまった。医者が大丈夫だと言うのだから心配ないと思うけれど、なんだかモヤっとする。何か隠し事をされているような気がするのは、単なる思い過ごしだろうか。  紙袋を携えた慎は、厚手のカーディガンを持って戻って来た。これから家まで車で送ってくれるという。 「これ、良ければ使って下さい。外は寒いですからね。体が冷えないようにしないと。さぁ、どうぞ」 「ありがとうございます……」  差し出されたカーディガンを、花梨は少し物寂しい気持ちで受け取った。頭では理解している。今は慎の家には泊まれないって。それが、迷惑をかけたくないという慎の気遣いであることもわかってる。でも、今日みたいに辛い事があった日は余計に離れたくないと思ってしまう。もちろん、わがままを言って慎を困らせたくないから、口には出さないが。 「花梨さんにはちょっと大きいですね」 「その分、手まで隠れるので温かいですよ。ほら」  言って、花梨は余った袖をプラプラと揺すってみせた。笑った慎が優しく背中を押しながら玄関へと案内する。 「本当だ。花梨さんが着ると、ただの上着も可愛らしいコスチュームになりますね」  いつもなら、くすぐったいセリフと穏やかな笑顔に心が揺さぶられるところだが、花梨の意識はほとんど慎に向いていなかった。来た時には気づかなかった異物が視界に入ったからだ。本来なら外にあるべき物が室内に設置されている様は、強烈な違和感を放っている。思わず花梨は歩みを止めた。 「先生……」 「はい?」 「あれ、防犯カメラですか?」 「え?」  玄関の天井の隅に設置されているのは、どうみても小型のカメラだ。しかし花梨が不審に思ったのはカメラそのものではない。その向きだ。  防犯カメラは侵入者を撮影するもの。だからドアに向いているのが普通だろう。なのに天井のカメラが映しているのは、ドアではなくリビングから通じる階段だった。しかも、カメラは一台ではない。よく見ると、リビングの天井の角にも、2階の天井にも設置されている。  まるで、寝室から出てくる者を観察するかのように。 「どうして防犯カメラが家の中にあるんですか?」  花梨がたずねると、慎は一瞬言葉をつまらせた。 「そ、それは……最近、この近くでコンビニ強盗があったんです」 「ニュースで見ましたよ。地下鉄駅の所でしたよね」 「ええ……犯人はまだ捕まってないので、用心の為に取り付けたんです。現金を盗まれるのはやむを得ないとしても、うちには患者さんの個人情報がありますから、念の為パソコンがあるクリニックと僕の寝室を見張ってるんですよ」  なるほどと納得しながら、花梨はうなずいた。 「そうでしたか……コンビニ強盗犯が早く捕まるといいですね」  薄く微笑んだ慎のいつもと少し違う様子が気になったものの、花梨はそれ以上追及しなかった。医者が患者の情報漏洩を危惧するのは当然のこと。まして近くで事件があったのならば、カメラを設置するぐらいのことはするだろう。  花梨は借り物の服のまま、慎の傘に守られながら雨の中を歩いた。車に乗ってから家に着くまで、雨足は弱まることなく会話の邪魔をしたけれど、それでも慎の隣にいられることが嬉しかった。昨夜も車で送ってもらったが、あの時よりも慎の横顔は穏やかだった。雰囲気も比べものにならないぐらい柔らかく、丁寧に部屋の玄関まで送り届けてくれた。
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