ダブルバインド

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「わざわざ送って下さって、ありがとうございました。先生のお洋服、ちょっとの間貸して下さいね。次に会う時にお返しするので」 「いつでもいいですよ。急ぎませんから。じゃあ、お薬を飲んでしっかり眠って下さいね」  それではと、軽く会釈してドアを閉めようとした慎に花梨は慌てて声をかけた。 「先生っ」 「はい?」 「あのっ……」  引き止めてしまった後で、伝えるべき用件がないことに花梨は気づいた。雨の中でじっと待っている慎を見つめながら、ほとんどヤケクソで思ったままを口にした。 「こっ、今度の日曜日っ、また先生のうちに遊びに行っちゃダメですかっ?」 「うちに?」 「土曜の夜は私が初めて企画したイベントがあってっ、直営店に行かなくちゃいけないので出勤するんですけどっ、日曜は休みなんですっ。だからっ、一緒にお昼ご飯食べたいなと思いましてっ……私が料理を作りますからっ」 「嬉しいな」  ふと呟いた慎の声は、強い雨音の中でもはっきりと耳に届いた。傘の下に佇む慎の口元には、本当に幸せそうな微笑が滲んでいる。 「花梨さんの手料理をご馳走して頂けるなんて、すごいご褒美だ。楽しみに待ってます。一緒にお祝いもしましょう」 「お祝い?」 「花梨さんの初仕事が成功したお祝いです」 「まだ成功するかどうかわかりませんよ?」 「なら、ぜひとも成功させて下さい。大丈夫。必ずうまくいきますよ。花梨さんの成功談を聞くのも楽しみにしてますから」  笑顔と共に言い残すと、慎は車に戻っていった。ゆっくりと走り出した車のテールランプが角を曲がって見えなくなるまで、花梨は玄関から見送っていた。慎を見送ると、いつも心の皮を剥がされたみたいにシクシクと胸が痛くなる。物寂しさを引きずりながらドアを閉めて、花梨はリビングに戻った。  今日は朝から慌ただしかった。電気を灯した室内は、今朝出勤したまま時が止まっている。こうして冷静になると、どれほど気が動転していたのかよくわかった。全然記憶にないけど、クローゼット内の服はハンガーごと全てベットに積み重なっているし、本来なら洗面所にあるはずの歯ブラシも、テーブルの上に置きっぱなしだ。  花梨は紙袋の中でくしゃくしゃになった洋服をハンガーに掛けると、まずはベットの上を片付けた。衣類をクローゼットに戻して寝床を確保した後、リビングの中を整頓した。ルームウェアに着替え、慎に借りた服を洗濯カゴに入れる。歯磨きを済ませて薬を飲むと、言われた通り床についた。  電気を消して闇が降りると、漠然とした不安がジワジワと足元から這い上がってくる。  健悟を襲ったのは、どんな人物だろう?   ここで被害に遭ったということは、健悟はその女に尾行されていたことになる。健悟もまた、何者かにストーキングされていたのだ。そして、自分も得体の知れない男に見張られている。  その事実が、眠りにつこうとしている意識を揺さぶり、安眠を妨げた。  眠りに落ちそうになってはふと意識を弾かれ、またうとうとしてはハっと覚醒する。暗い静寂の中で、花梨は何度も意識を失っては目覚め、また眠りに落ちた。  どのぐらい夢と現実の狭間で行き来しただろう。  受信したスマホのライトが眠りを弾いた。  深夜2時。  乱暴に送りつけられたメッセージが、今夜もブルーライトの中に浮かんでいる。  枕元で灯った青白いスマホの明かりは、夜闇に沈んでいた寝室の家具をぼんやりとあぶり出し、寝惚けている意識を揺さぶり起こした。 「ん~……」  ふと目を覚ますと、花梨は寝惚けたまま枕元で光るスマホを見た。次の瞬間、 「――ッ!!」  強烈な恐怖と疑心が一気に脳を覚醒させた。 > 愛してる  メッセージは、恋人から送られてきたものではなかった。 「……あ……愛してる……?」  震える声が唇から漏れた。  花梨は動揺に視線を揺らしながら画面を見つめた。  正体不明の男は、今夜も自分を見つめている。  闇の奥からじっと視線を向けている。  一方的に呟いては沈黙し、また気紛れに無遠慮に言葉を送りつけてくる不気味なメッセージは、一体誰が、どんな悪意を持って送っているのか。何が目的なのか。見当もつかないまま花梨は震える手でスマホを手に取った。 > そんな言葉はいらないんだろ?  得体の知れない"誰か"からのメールは、こちらの恐怖心をより一層煽り立て、嘲笑うかのように続く。 > 俺には見えてる > お前の願望が  画面に浮かぶ文字の奥から、"誰か"の視線をくっきりと感じた。マジックミラー越しに見られているような、気配だけが滲む存在感に背筋が寒くなる。  花梨は体を起こすと、メッセージの裏に潜む男と向き合った。逃げてちゃダメ。スマホの奥に隠れている影を見つけ、実体に触れなければ終わらない。画面に浮かぶ男の言葉を見つめながら、花梨は恐怖に震える心を落ち着かせようと深呼吸した。いや、鎮めようとしているのは恐怖心ではなく好奇心かもしれない。  異常なまでに自分へ執着する相手は、どんな男なのか。  これほどまでに荒々しい激情を、男は、どのように生み出しているのか知りたいと思った。  貫いてきた沈黙を破って、自ら男が隠れている闇に踏み込んでみよう―――返信欄を指で触れようとした、その時だった。 「あっ……!」  また、メッセージが届いた。 > お前は愛して欲しいわけじゃない  心臓がズキンと爆ぜた。  花梨は瞬きもせず画面を見入った。  自分も知らない心の底を見透かされたみたいな心地悪さが、息苦しい程に胸を圧迫している。もはや、恐怖よりも男に対する興味の方が勝っていた。  一体どんな男なんだろう。  言葉で不安を煽りながらも、身に迫る危険からは守ろうとする奇妙な男を、もっと知りたい……… > いい加減素直になれよ  闇の中から、男が囁きかけてくる。 > 俺は知ってると言っただろ > 本当のお前がどういう女なのか    クスクスと嘲笑する男の声が聞こえた気がした。  > 願望を解き放て  花梨は唾を飲んだ。  心臓の音が耳の奥でこだましている。  震える指で、花梨は文字を打ち込んだ。
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