フラッシュバック

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「南区にある医療福祉施設からの電話も、取り継がないように言われたような気がして……確か、そうでしたよね?」  ためらいがちに言う事務員の声も遠く聞こえる程、慎は激しく動揺していた。その通りだった。もう10年になるだろうか。自分の心的外傷(トラウマ)は、あの場所に封じ込めてある。二度と開けることのない、パンドラの箱だ。 「ただ早急に連絡したい事があるそうで、私が聞いて先生に伝えると言ったんですけど、先方は親族以外に話せないの一点張りで……」 「わかしました」  ほとんど無意識で返事をしていた。慎は息苦しさに顔をしかめながらも自分を落ち着かせた。心臓が、慌ただしい脈を刻んでいる。重苦しい鼓動がろっ骨を軋ませ、ジクジクと痛みを掘り返す。それを悟られないよう、努めて平静を装った。 「繋いで下さい」 「よろしいんですか?」 「はい」  迷いのない返事を聞いた事務員は、そっとドアを閉めて受付に戻った。密室が出来上がった瞬間、どっと汗が噴き出す。異常に喉が渇いていた。固定電話の保留ボタンは既に点灯しており、相手は保留音の奥で待っている。慎は掻き毟るようにYシャツの第一ボタンを外した。こんなに息が乱れていては話どころじゃない。  ティーセットの横にある氷水を一杯煽るように飲み干すと、深呼吸しながら電話に手を伸ばした。逃げるわけにはいかなかった。花梨は擦り切れた心を奮い立たせて元彼(トラウマ)と向き合ったのだ。勇気を出して、過去を乗り越えようとした。ならば自分も同じく傷と向き合うべきだと思った。狂気に満ちたあの忌まわしい記憶を葬り去る為にも。  慎は受話器を取ると、覚悟を決めて片耳に当てた。胃の辺りが焼けるように熱く、嘔吐感がせり上がってくるも、どうにか冷静に応じてみせる。 「……お待たせしました、西園です」  電話の相手は、渋みのある声が印象的な年配の男だった。 『はじめまして。施設長の藤川と申します』 「ご用件は何でしょう?」  事務的にそう返した。声を発するたびに心臓が痛む。穿刺されたみたいにジクリ、ジクリと、鋭い痛みが胸を刺す。 『西園浩司さんのご子息でいらっしゃいますね?』  藤川と名乗った年配の施設長が、念を押すようにたずねてきた。慎は嫌悪感と怒りをグっと飲み込んだ。どうやら父は、断りもなく勝手に緊急連絡先を息子にしていたらしい。もっともあの傲慢な父が事前に相談などするはずもないが。 『こちらの書類には、第二連絡先がご子息の西園慎さんになっているので、お電話したのですがお間違いありませんか?』  苦汁を飲み下すように慎は返事した。 「はい、相違ありません」 『良かった、ご親族と連絡が取れて。実は早急にご相談したいことがあり、お父様に何度も電話をしたのですが繋がらず困っていたんです』 「でしたら職場にかけてはいかがですか? 僕に相談されても、決定権は父にあるのでお役に立てません」  話している間も、胸のムカつきは増す一方だ。今の状況を作った原因は完全に父にある。家庭を壊し、人の心を壊し、家族を不幸にしておきながら、その後始末を医療にさせている父の卑怯さとズルさが許せない。抑えようのない苛立ちに、自然と口調も冷たくなる。 「もし職場に連絡しないように言われているなら、無視して結構です。父も医者です。入院患者に関する相談は親族にしかできない事は、十分に承知しているはずです。電話に出ないので職場にかけたと言えば、納得するでしょう」 『すでにお勤め先には連絡しました』  間髪入れず、施設長が応答した。話す声にはどこか呆れたような響きがこもっている。 『なんでも海外研修に行かれていて、1ヶ月ほど休職されているんだそうです。お父様には先月もご相談があると連絡したんですが、その時は多忙で時間を取れないとの事でしたから、今月こちらへ来て頂く約束をしたんですけど、我々に何の連絡のないまま海外へ行かれてしまったので、こうしてご子息にお電話したんです』 「……ッ」  無意識のうち、慎は受話器を握り締めていた。腹立たしさで胸がムカムカする。本当にどこまで身勝手な人だろう。どうせまたお気に入りの女医を連れた研修という名の海外旅行だ。これが初めてじゃない。その不貞行為よりも、最低限のを放り出す無神経さに心底腹が立った。  父にとって家族とは単なるアクセサリーでしかない。優秀な外科医、立派な家庭人、誇れる夫、尊敬できる父親―――全て自分の身を飾る宝飾品。だから不良品はいらないのだ。見栄えの悪いものは簡単に捨てる。自分を汚すものは処分していくのだ。  円満じゃない家庭も、  賢くない妻も、  外科医にならなかった出来損ないの息子も、全て。 「……わかりました」  慎は血を吐くように返事した。冷静に対応できたのは、心療内科医としてのプライドが暴走しそうな感情を抑制したおかげだ。沸騰しそうな嫌悪感と父親への怒りを拳で握り潰しながら、慎は淡々と告げた。 「そういう事情なら代わりに僕が伺います」 『そうして頂けると助かります』  相手は安心したようだった。書類を見ながら話しているのか、受話器の奥からは紙をめくる音がかすかに聞こえてくる。
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