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『ではさっそくですが、本日お越し頂けますか? 時間は何時でも構いません。治療法や薬についてご相談したいんです。お父様の面会が滞ってからというもの、それまで落ち着いていた患者様の陽性反応がひどくなりまして……あなたも医師ですから、どういう意味かおわかりだと思いますが』
「……では、7時に伺います」
『お待ちしております』
会話を終えると、慎は叩きつけるように受話器を伏せた。視界が薄暗くなってゆく。暗闇の中で、ドクン、ドクンと速く脈打つ心臓の音が頭の中にこだましていた。そこに近づいてはいけないと、本能が強く警告している。
傷に触れてはならない。
傷はまだ膿んでいる。
かさぶたを剥がせば、また出血する。
今度こそ、封じ込めた悪夢が甦るかもしれない。
そんなことは慎もわかっていた。きっと花梨と出会う前の自分なら、どう言われようと出向いたりしなかっただろう。"あの人"との面会は主治医に禁じられている事の1つだし、心療内科医として判断しても賛成できない。会えば必ず双方に深刻な副作用をもたらす。
それがわかっていながらあえて禁忌を犯そうとするのは、自分を変えたいからだった。あの人から逃げ、病を隠し、再発に怯えながらウソで誤魔化す卑怯者でいたくない。花梨は勇敢な人だ。恐怖と対峙する強さを持っている。そんな彼女の恋人に、今の自分は相応しくない。
だから決めた。
もう逃げない。
恐怖から目を背けない。
慎は片手でそっと首に触れながら、深く息を吸い込んだ。膨らんだ肺で、暴れる心臓を静かに押さえつける。大丈夫。心配はいらない。もう無力な子供じゃないのだ。今や自分はあの頃の父と同じ年の男であり、医者でもある。何が起きても冷静に対処できるだけの経験と実力を手に入れた。
だから、大丈夫……
庭園に面するベランダの網戸から、そよ風が吹き抜けた。
白い遮光カーテンがふわりと舞う。
ふと、ガラスに映る自分の姿が視界に入った。そこに映るもう1人の自分が一瞬、フっと嗤ったように見えたのは気のせいだろうか。
慎はゆっくり歩み寄ると、未だ心の奥に燻る不安を断ち切るようにガラスの戸を閉めた。
「最後にいらしたのは半年前になりますねぇ」
応接室で待っていた施設長は、想像した通り温厚そうな初老の紳士だった。
南区にあるこの医療福祉施設は、精神疾患者が適切な医療を受けながら暮らすための終身介護病院だ。向かいに座るなり沈鬱な表情を浮かべた施設長は、同じ医師として敬意を払いつつも、無責任な父親の対応をやんわりと批判した。
「もちろん我々も西園先生のお立場は承知しておりますよ。なんせ日本でも10本の指に入る心臓外科の名医だ、お忙しいことと存じます。ですが、我々にとっては他の方々と同じ入院患者様のご家族です。大事なご相談に応じて頂けない事態は、お互いの信頼関係を揺るがすことになりかねません」
「もっともな意見だと思います。父の失礼な態度は僕がお詫びします。本当に申し訳ありません」
慎は頭を下げて深く詫びた。父のためじゃない。施設長の不満は正当なものだと思ったからだ。入院患者の治療に関しては、家族の同意なくして進められない。決定権を持つ責任者とまともに話ができず、治療方針を固められない歯がゆさと苛立ちは痛い程よくわかる。
「頭を上げて下さい、あなたが謝る必要はないんですから」
あまりにも素直な謝罪に、施設長は面を食らったようだった。仕切り直すように咳払いすると、改めて事情の話し始めた。
「実は、お父様が面会に来なくなってから、少しずつお母様の情緒が不安定になりましてね」
「……」
施設長の言葉がズンっと重く胸に響いた。長い間、意図的に排除してきた"あの人"の面影が脳裏に甦る。自然と心拍が速くなり、緊張による発汗で掌が湿ってきた。
「ずっと落ち着いていたんですが、陽性反応が強く表れるようになり、自傷行為も始まったものですから、拘束具を使って身の安全を確保している状況です。薬の剤形も今までは経口剤でしたが、既に口からは飲めなくなっているので注射剤に切り替えています」
重苦しい溜息をつきながら、慎は暗い気持ちで施設長の話を聞いた。陽性反応とは統合失調症の症状の1つで、妄想・幻覚・思考障害の特徴を持つ。拘束具を使っているということは、重度の二次障害を併発したんだろう。勤務医時代は精神科病棟でも仕事をしたので、患者がどんな状態かは想像に難しくない。手足を固定され、一切の自由がなく、抗精神病薬で強制的に安静状態を維持されている廃人同然の状態だ。
「ただですね」
まだ希望はあると言いたげな口調で、施設長は続けた。
「お父様の話をする時のお母様は、とても生き生きとされているんです。話もしっかりしてますし、笑顔も見られます。こちらとしてはまず、自傷行為を止めて健全な入院生活が送れるようにしたいと考えています。そこで従来型の薬から非定型の新薬に変更したいのですが、なんせ副作用がありますので――」
「全てそちらにお任せします」
話を遮るように慎は告げた。薬の説明はいらない。一般的にブレクスピプラゾールと呼ばれる抗精神病新薬の副作用については承知している。薬によってどんな弊害が出ようと、患者に死なれる以上の悲劇などないのだ。仮に反対したところで施設側は新薬投与を強く促すだろう。不要な議論は時間のムダだ。
「治療法や薬の処方に関する一切を施設長の判断に任せます。同意書も書きますので、適切だと判断された治療を施して下さい」
「よろしいんですか?」
「構いません」
慎はきっぱりと答えた。
「父には僕から伝えておきます。そもそも基本治療に関する相談を放置している父が悪いんです。医者ならカンファレンスがどれほど重要なものかわかるはず。それを自己都合で先延ばしにするなど無責任です。何が起きたって父に文句を言う権利などありませんよ」
「は、はあ……」
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