ダブルバインド

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『これから警察署に行ってきます。さっき救急車と一緒に警察も呼んだんですよ。松浦さんが暴行されていた以上、通報しないわけにはいきませんでしたから』 「けどなんで先生が警察にっ?」 『どうやら松浦さんは僕たちと別れた後、一緒に出張してきた同僚と飲んでいたようなんですが、その同僚が早朝に警察へ捜索願を出してたらしいんです。怒って店を出て行ってから連絡がつかず、ホテルにも帰って来ないので探して欲しいと警察を頼ったようです』  一緒に飲んでいたのはたぶん、旭川支社の若い社員だ。会社の玄関前で慎にこっぴどく打ちのめされたので、お酒で鬱憤を晴らしていたものと思われる。 『同僚の方が警察に状況を説明した時、僕の名前が出たそうなんですよ。その松浦さんが僕の家で、しかも意識不明の状態で発見されたわけですからね。僕に容疑がかかるのも無理ありません』 「なッ……!?」  驚きのあまり声が引きつった。 「警察は先生が健悟を殴ったと思ってるんですかっ!?」 『そのようです。状況的に考えれば僕が一番怪しいですから。とりあえず、警察署で事情を説明してきます』  話す慎の声が遠く感じるほど頭が混乱していた。何か、見えない大きな力が蠢き、周囲を巻き込んで自分の日常を歪めているような気がする。花梨は健悟のカバンに視線を流した。闇の中にポツンと取り残された黒皮のカバンは、"誰か"がわざとその場に置き残した狂気ように感じる。 「先生っ、そこのお巡りさんに話がありますっ」  体を締め付けてくる強い不安と戦いながら、花梨は自分を奮い立たせた。 「電話を代わって下さい!」 『えっ?……あぁ、はい』  一瞬ためらったものの、勢いに圧倒されたのか、慎は近くの警官に電話を預けたようだった。入れ替わるようにして渋い声が耳に伝わった。 『もしもし、西警察署の笹森です。まずはお名前を教えて頂けますか?』 「米里花梨です。松浦さんとは同僚で、3月までは同じ本社勤務でした」  あれこれ聞かれる前に、花梨は全部教えてやった。健悟とは半年交際し、2ヶ月前に別れたこと。健悟から受けた精神的DVで不眠症になり、慎のクリニックに通院していること。今はその慎と交際していて、昨日、それを知った健悟が理不尽に怒っていたことを伝えた。  その後、自分たちはレストランで食事をしてから帰宅したが、ひどく酔った健悟がアパートに怒鳴り込んできた直後にメールが届き、ストーカーめいた男から"健悟を片付けてやる"というメッセージが送られてきたと打ち明ける間も、警官は気のない相槌を打つだけだった。 『なるほど、あなたが松浦さんの元交際相手ですか……それで、米里さんはそのメールの差出人が松浦さんを拉致して暴行した後、西園さん宅に放置したとおっしゃるわけですね?』 「そうです!」  これで慎の容疑も晴れるだろう。そう思いきや、花梨の予想を裏切って警官はとんでもない結論を口にした。 『ひとまず事情はわかりました。ですがやはり、西園さんには署でお話を伺います』 「はあッ!? なんでそうなるんですかッ!? 私の話聞いてましたッ? 先生は関係ありません! 私にメールを送ってきた男が犯人だと言ってるでしょう!」 『それは現段階で憶測の域を出ません。捜索願を出された社員さんの話によると、昨夜の松浦さんはとても荒れていたそうで、"あの西園ってヤブ医者許さねぇ"と怒って店を飛び出したんだとか。"あの西園"がこちらの医院長さんであるのは明白です。だったら事情をお聞きしないと。西園さんがあなたの恋人で、松浦さんが元彼ならば尚更です』  ムカムカと頭に血が上る。花梨は声を荒げた。 「それどういう意味ですかッ?」 『つまり、あなたが言う"メールの男"による犯行の可能性は低いということです』  警官は冷やかな口調で答えた。 『もしその男があなたのストーカーならば、狙われるのは元彼の松浦さんではなく、今付き合ってる西園さんの方です。仮に、ストーカーがあなたを助けるために松浦さんを拉致暴行したとして、山林にでも捨てたというなら話もわかります。でも松浦さんが発見されたのはここ……なぜストーカーが松浦さんをわざわざ西園さんの家に運ぶんですか? そんな必要ないでしょう』  沸騰していた頭に冷や水をかけられて、勢いが萎んでしまった。冷静に考えれば、確かに一理ある。 「で、ですがメールが来た直後に健悟はさらわれてっ」 『さらわれたかどうかも現段階ではわかりません』  煩いハエを叩き落すように言って、警官は面倒くさそうな息をついた。 『松浦さんが自発的にアパートを去り、西園さんの家に来た可能性もなくはない。捜索願を出された社員の方は、署員にこうも話してたそうなんですよ。昨日米里さんの事で松浦さんと西園さんが本社前でモメたようだと。それが事実なら、昨夜松浦さんと西園さんの間に何らかのトラブルが生じたと考えるのが自然でしょう」 「……ッ」  花梨は歯ぎしりした。警官は頑なで反論を差し込む余地がない。こんなことなら慎と付き合っている事は内緒にしておけば良かったと、今さらながら後悔した。 『この件はこちらで対処しますので、ご心配なく。あぁそうだ、申し訳ありませんが、松浦さんの近親者の連絡先を教えて頂けますか?』  付き合っていたなら当然知ってるだろう、という口振りにイラっとした。健悟の実家は東区だったと思うが、電話番号なんて知らない。わからないと答え、健悟のカバンをドアの前で拾ったのでスマホから調べてはどうかと提案すると、後で署員が会社へ取りに行くというので渡すことにした。
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