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相槌を打つ施設長の顔は、少し強張っていた。父の剛腕ぶりは医療業界でも有名だ。若くして外科部長に昇進したのも、決して手術の腕だけで成した偉業ではない。出る杭を徹底的に打ち、ライバルを排除する。世話になった上司さえ蹴落として日本外科学会の上層に昇りつめた父は、この業界における異端児であり、悪徳医者の代表格だ。ただし、腕は超一流。
そんな権力者を堂々と批判する者がいるとは思わなかったのだろう。初老の施設長は引きつった笑顔を浮かべながら言葉を濁している。
「いや、まぁ、西園先生も奥様のことは心配なさっておられるでしょう。えー……それで、今日はご子息に一つお願いがありまして」
「何でしょう?」
急に表情を改めると、施設長は神妙な様子で言った。
「治療の相談を始める前に、お母様に会って頂けませんか?」
思わず慎は顔を渋めた。当然こういう展開も予想はしていたが、現実として身に迫ると緊張した。心拍の上昇と共に汗が滲み出し、自然と体が拒否反応を起こす。10年という歳月を経た自分は、あの人の瞳にどんなふうに映るのか。考えるとひどく心がザワついた。
「もう半年間もご家族と会えず、その寂しさや孤独感も精神状態の悪化に拍車をかけています。ご子息の顔を見れば安心なさるでしょう」
「……」
言葉に詰まった。慎は返事を探すように視線を彷徨わせた。あの人は安心などしない。そもそも、あの人の中に家族は存在しないのだから。心の中を占めるのは自分が執着する男のみ。あの人にとっては夫が全てなのだ。例え妻を裏切り、子供を捨て、二度と自分の元に戻ってくることはないとわかっていても。
「では、こちらへどうぞ。私がご案内します」
事情を知らない施設長は、腰を上げるや丁寧に廊下へ促した。純粋に患者のためを想ってのことだろう。なぜ夫しか面会に来ないのか、どうして患者が精神を病んだのか、理由など知る由もない施設長は隣を歩きながら自信たっぷりに施設の実績を力説している。
「患者様が少しでも快適な暮らしができるよう、我々も最善を尽くしております……あぁ、こちらのお部屋ですよ」
応接室を出てから入院病棟に入り、広い廊下を進んだ突き当りの部屋の前で、施設長が立ち止まった。引き戸の上部半面がプラスチックになっているのは、常に患者の様子を観察できるようにする為だ。1階は症状の重い患者の病棟なんだろう。個室の窓には事故防止用の鉄格子がついている。
「さぁ、どうぞお入り下さい」
「……っ」
自ずと、体に力が入る。廊下から見える窓辺には、車椅子に座った人影が見えた。まるで人形のようにじっと窓を眺める後ろ姿は物静かで、どこか寂しさも感じられる程に弱々しい。慎は異常な喉の渇きを感じながらも、必死に平静を装いながら施設長に続いて部屋に入った。
「西園さん、こんにちはぁ。ご気分はどうですかぁ?」
施設長は穏やかに声をかけながら窓辺に近づいてゆく。家具も何もない殺風景な10帖程の部屋だった。消毒液の匂いがする。窓は閉まっているが、部屋の空気は妙に冷たい。慎は息苦しさが増す中でもどうにか自分を落ち着かせた。緊張で、全力疾走した後みたいに心臓が速い脈を打っている。まるで夢の中を歩いているような浮遊感に襲われ、視界がユラユラと揺れた。船酔いしたみたいに胸がむかつき、吐き気がする。
「西園さんに面会の方が来てますよ」
「……私に……会いに……?」
軽やかな声音が鼓膜を弾いた途端、強い悪寒が背筋を駆け抜けた。慎は全身を強張らせた。車椅子の隣にしゃがんだ施設長と話す彼女は、首だけ少し横に向けただけで全く動かない。遠い記憶の中で、夜風になびいていた長く艶やかな髪には白髪が混じり、時の流れを感じさせた。体も一回り小さくなった気がする。だが声だけは昔のままだ。甘やかで、穏やかな、優しい声音。
それだけに、施設長が車椅子を回転させて対面した彼女の変わりように、慎は言葉を失った。
「今日はご主人の代わりに息子さんがいらっしゃいましたよ」
「……?」
不思議そうにこちらを見る母は、最期に会った時の面影こそ残しているものの、ほとんど別人と言ってもおかしくない程に変わり果てていた。目はくぼみ、頬骨が出るぐらいにやせこけ、額や口周りに深いシワが刻まれている。張りのある白肌に薄化粧が良く映え、長く艶やかな黒髪が印象的だった美しい母の姿はもう見る影もない。
骨の上に辛うじて皮膚が覆いかぶさっているだけの腕には、掻き毟ったであろう跡が何本も残っていた。よく見れば、髪を毟り取ったらしい痕跡が所々にあり、その部分だけ頭皮が透けて見える。精神異常による自傷行為の典型的な例だ。それを防ぐ為だろう。両手首には皮膚を傷つけない素材の拘束具が付けられ、車椅子のひじ掛け部分に固定されていた。腰回りにもベルトがかけられ、両足首も同様にひとまとめに拘束されている。
「西園さん、おわかりになりますか? 息子さんですよ」
「……む、す、こ……」
慎は呆然とその場に立ち尽くした。車椅子に固定されたままじっと見上げる母の瞳は虚ろで、精気が感じられない。抗精神薬の効果だろう。薬が効いているようで、母は喜びも落胆もせずぼんやりと見つめている。
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