フラッシュバック

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「今日はご主人に代わって、息子さんがお見舞いに来て下さいました」  声をかけろとばかり、施設長が視線を向けてきた。だが、何て言えばいいい? 10年も会わずにいた母に、普通の息子はどんな言葉をかけるものなのか。困惑しながら、慎はどうにか声を押し出した。 「……久しぶり……」  ためらいがちに投げかけたが、母の反応は鈍い。 「僕のこと……わかる?」  小首を傾げている母を、慎は痛々しく見つめていた。心の底に沈殿していた母へ禍根が、お湯に入れた氷のように溶けていくのがわかる。目の前にいるのはもはや、記憶の中の"あの人"ではなかった。  狂気に満ちた美しい母はもういない。  夫の浮気に苦しみ、出産したせいで女として見てくれなくなったのだと自らを責め、しだいに精神を病み、全ては子供を産んだのが悪いのだと思い込んで、子供さえいなくなれば夫は戻ってくるという妄執にとらわれ、息子を殺そうとした母は今、自由に生きる権利と引き換えに穏やかな時を過ごしている。  "いっそ狂ってしまった方が幸せ"―――以前、勤務医時代に担当した患者の言葉を思い出した。確かにそうかもしれない。正気でいながら苦しむよりも、狂気に堕ちて現実が見えなくなった方が楽だろうから。  ゆっくりと息を吐きながら、慎は崩れるように車椅子の前にひざまづいた。目の前にいるこの母は、恐怖の象徴であると同時に最愛の人でもあった。例え母が自分に殺意を持っているのがわかっても、母を失いたくなかった。  微笑みかけて欲しかった。  抱きしめて欲しかった。  頭を撫でて欲しかった。  正気でいる時の母は、自分を愛してくれた。同じ布団で寝ながらよく絵本を読んでくれた。手を繋いで庭を散歩し、優しく抱っこしてくれたものだった。そこには確かに、母性が生み出す無償の愛があった。美しく、優しい母は自分の世界の全てで、母さえそばにいれば他に何もいらなかった。そんな愛しい母が狂人へと変貌し、殺意を剥き出しに襲い掛かってきたあの時、大好きだった母は死んだのだと幼心に悟ったのだ。小さな心に負った傷は、数十年経った今も奥底でジクジクと膿んでいる。  だが変わり果てた母を前にして、ずっと抱いてきた恐怖心や緊張感は消えていた。同時に、母を壊しておきながら反省も償いもせず、全て医療に押しつけて病院へ捨てた挙句、面会という最低限の責任さえ果たさない父に対して、激しい怒りが込み上げた。ただならぬ気配を察知したのか、ふと気づけば母が心配そうに見下ろしている。 「あっ、ごめん……何でもないよ」  つくろうように慎は微笑んだ。夢遊病を引き起こした心因(トラウマ)と対面している最中、笑顔を作れた自分に驚いた。 「お母さんは……その……元気にしてた?」 「……」  声をかけると、それまで虚ろだった母の瞳にゆっくりと精気が戻り、焦点が定まった。認識力を感じさせる力強い視線をじっと向けたまま、母が薄く微笑みかけてくる。 「……眼鏡、かけたのね……」 「え? ああ……うん……」 「似合ってるわ」  何十年ぶりだろう。母の笑顔を見るのは。頬骨が浮き出る程にやせこけ、肌は荒れ、髪も艶をなくし、老婆のようであってもその笑顔には確かに面影がある。少女みたいに可憐で、優しかった母の名残りが。 「……顔……よく見せて……」  触れたいのか、拘束具に繋がれた母の手がもどかしげに動いている。これが医療措置であるのは理解しているけれど、見ているのが辛くて、思わず慎は傍らの責任者へ直訴した。 「施設長、母の拘束を解いて頂けませんか? ほんの少しの間で構いませんから」 「いや、ですが……」 「お願いします。陽性反応も今は落ち着いているでしょう?」  施設長は困ったように返事を濁した。 「確かにそうですが、お母様の精神状態は非常に不安定で、薬を投与している間も自傷行為や奇行が表れるので拘束してるんです。全ては患者様の安全の為です。あなたも医師ならよくご存じでしょう」 「それを承知で頼んでるんです。少しだけ、母に自由をあげて下さい。責任は僕が持ちますから」  責任を持つ、という免罪符を提示されたことで安心したらしい。施設長は渋々ながらも拘束具を解いていった。 「そこまでおっしゃるなら、わかりました。ですが本当に少しだけですよ」 「ありがとうございます」  施設長が両足首から拘束具を解いたところで、廊下から看護師が声をかけてきた。業務連絡らしい。看護師をチラ見してから、施設長が申し訳なさそうに言う。 「ちょっと失礼してよろしいですか? すぐ戻りますので」 「どうぞ」  席を外した施設長は、廊下で看護師と立ち話をしている。慎はそっと視線を戻すと、手首をさすっている母へためらいがちに声をかけた。 「手首……痛む?」 「大丈夫よ」 「いいから、僕に見せて……」  慎は恐る恐る腕を伸ばした。十数年ぶりに触れた母の手。骨と皮だけになっていたが、母の手はとても温かかった。慎は壊れ物に触れるような優しい手つきで細い手首を裏返すと、ほんのり赤くなった皮膚を痛々しげに見つめた。
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