17人が本棚に入れています
本棚に追加
「少し擦りむけてる……軟膏を塗ってもらおうか」
「平気よ……それより、ちゃんとご飯食べてるの?」
慎は小さく笑った。自分でも信じられないが、驚くほど自然に笑うことができた。
「食べてるよ」
「心配だわ……あなたは好き嫌いが多いから」
薄い笑みを浮かべたまま母が言う。
「野菜も、お米も、残したりしてない?」
「大丈夫。もう子供じゃないんだから」
「そうだけど、あなたの手、とても冷たいわ……」
言いながら、母は愛おしそうに冷たい手を両手で包み込んできた。反射的に慎は腕を引こうとしたが、それを引き止めるようにキュっと強く握り締めてくる。
「栄養が足りないと、体温が下がってしまうの。ダメよ、手を冷やしちゃ……あなたの手は、人の命を救う為に神様が下さったものなんだから」
「そんな、大そうなもんじゃないよ」
「いいえ、この手は尊い手……大切な手……」
子供の頭を撫でるように、母が手をさする。胸が熱く震えた。一体母の目には、35になった自分がいくつに見えているんだろうか。無意識のうち、慎は母の手を握り返していた。
「お母さん……」
吐息と共に漏れた慎の呟きに、ふと母が優しい視線が向けてきた。
「今日は会いに来てくれてありがとう」
「……うん……」
胸が詰まって頷くのが精一杯だった。慎はすがるように母を見返した。クスっと微笑んだが母が、ゆっくりと頬を撫でてきたそのとき―――
「大好きよ……浩司さん……」
「!」
反射的に体がビクッと硬直した。一瞬にして心が凍りつく。微笑む母の瞳に映っているのは、息子ではなかった。穏やかで優しい母の目は、見たいものしか見えない。自分の世界の全て―――自分を捨てた夫だけだ。
「お、お母さん……?」
慎は震える声で呼びかけた。乾いた苦笑が唇からこぼれた。今更なんで傷ついたりしているんだろう。母の世界から自分はとっくに消されていることなど、わかりきっていたはずなのに。
「お母さん……僕は、慎だよ……」
「え?」
それでも言わずにいられなかった。頭の中では激しく警鐘が鳴り響いている。
やめろ!
それ以上近づくな!
誰かが必死に叫んでいる。けれど慎は本能の声に耳を塞いだ。一瞬でもいいから思い出して欲しかった。幼い子供のままでいい、どんな姿に見えていても構わないから、母に自分を見て欲しかったのだが―――
「……シン……?」
豊かな笑みが漂う母の唇から、その名がもれた次の瞬間。
「……なんでお前がッ……!!」
「――ッ!?」
眠たげだった母の目が極限までカッと見開かれた。途端に顔が青ざめ、細かな汗の粒が噴き出している。慎は硬直した。緊張感と恐怖心が一気に甦ってきた。
寸前まで自分を見下ろしていた穏やかな母の顔は醜く歪んでいた。歯ぎしりする口からは荒々しい吐息が溢れ出し、唇の両端から唾液が糸を引いて垂れている。獣のようなその形相は、封印してきた過去の"あの人"そのものだ。
「なんでお前がぁぁぁあああああッ」
醜く変貌した母の口から、怒号がほとばしった。
「んぐぅッ!?」
一瞬の出来事だった。母の豹変ぶりに気を取られた隙に、細い両腕が素早く伸びた。気づいた時には首を絞められていた。慎は振り払おうとしたが、猛烈な勢いで車椅子から立ち上がった母が馬乗りになってくる。
「ああぁぁぁああぁあぁあああッ」
「くはッ……!!」
慎は咄嗟に母の手首を両手で掴んだ。ほとんど骨と皮しかない腕とは思えない程の力で首を絞める母の顔は、悪夢の中の"あの人"と全く同じだ。初めて首を絞めてきた時のように血走った目を見開き、病院の屋上から引きずり落とそうとした時と同じく絶叫している。
「あああぁぁあああッ、お前さえいなければぁぁぁッ、お前さえ産まなければぁぁぁッ、お前が死ねば浩司さんは私のところに戻ってくるのにぃぃぃぃぃぃッ」
「ハァッ……!!」
首に食い込む指が、軌道を塞いで呼吸を止める。慎は渾身の力で母の腕を払い退けようとするも、酸欠の所為でうまく力が入らない。
「ああッ、西園さん!! 何をしてるんですかッ、おい誰か来てくれ!!」
施設長の切迫した声と慌ただしい足音が近づいてくる。だが既に視界は暗く、聴覚も鈍り始めていた。肺が酸素を求めて暴れ、心臓がドクドクと死への恐怖に震えている。薄暗い視界に広がっているのは、長い髪を振り乱して殺意を剥き出しにしている"あの人"の歪んだ顔。目の前の現実から逃げるように、意識が遠のき始めた。
「西園さんッ、早く手を離して!!」
「いやぁぁああぁあぁあああッ」
「西園さんッ……おい鎮静剤はまだか!!」
「お前が死ねばぁぁぁッ」
「やめて下さいッ、西園さん!! 息子さんが死んでしまう!!」
「死ねぇぇええぇぇええッ――」
"……あの時と同じだな……"
頭の片隅で、自分の声が聞こえた。
小さな嘲笑と共に、意識が闇に落ちてゆく。
そう、これはわかりきっていた現実。
母の世界に息子はいない。
母が求めているのは夫のみ。
会えば必ず互いに傷つく。
あの時と同じ悪夢が繰り返されるだけ。
きっと母は、自分を殺そうとする。
愛しい夫を失った、悪因を葬り去るために。
「院長先生ッ、西園さんは私達が押さえてますから!」
「やめてぇぇえええッ、離してぇぇええッ」
「西園先生っ、大丈夫ですかっ!?」
「いやぁぁああああああッ」
「西園先生っ……院長ッ、先生の呼吸がっ」
「今殺す今殺す今殺す今殺すッ――」
体を圧迫していた重みが消えた。ジタバタと暴れる足を、誰かが押さえる気配がする。すぐ傍らで、看護師の慌てた声が聞こえた。呼吸の有無を確認しているらしい。聴診器が慌ただしく胸の上で踊っている。
初めて母に殺されかけた時、今のように呼吸を確認しながら必死に救護してくれたのが父だったことを、今頃になって思い出した。
悲鳴にも似た母の叫び声を聞きながら、慎は意識を手放した。
生暖かい何かが、ねっとりと胸の上を這っている。
熱い吐息に絡まる濡れた何かが、鎖骨を通ってゆっくり首筋を這い上がってくる感覚に、慎はハっと目を覚ました。次の瞬間、ぼやけた視界に得体の知れない女の顔が飛び込んでくる。ニヤリと割れた真っ赤なリップが、覆いかぶさるようにして唇に重なった。
最初のコメントを投稿しよう!