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「んふっ……!?」
強烈な香水の匂いが鼻腔を穿つ。瞬間的に夢ではないと悟り、慎は混乱する余裕もないまま圧し掛かる肉体を払い退けた。
「きゃっ!?」
「ぷはっ……ハァっ、ちょっ、ちょっと、あなた何してるんですかっ!?」
体を起こして周囲を見るも、施設長はもちろん看護師も母の姿もない。どうやらビジネスホテルの一室みたいだが、今は記憶欠損に動揺するより、隣にいる女の方に恐怖を覚えた。
キスを中断されて、きょとんと見返す女は裸だった。辛うじてレース仕立てのパンツで局部が隠れているも、ふっくらと大きな胸は堂々と存在感を主張している。クルクルとカールのついた長い茶髪に、煌びやかな濃いめのメイク。長いネイルにはパールや花が施され、むせ返るぐらいの香水を振りまく女はどこか商売気を感じさせるが、見覚えは全くない。
「あっ、あなた誰ですかっ?」
しどろもどろで慎がたずねると、女は小首を傾げながら怪訝に眉をひそめた。
「はあ? 何言ってんのぉ?」
訳がわからないというように、女が見返してくる。一体何がどうなっているのか理解できないまま、慎は慌てて枕元の眼鏡をかけた。途端に視界が明瞭になる。ぼやけた輪郭がはっきりと浮かび上がり、女の顔も明瞭に見て取れたが、やはり誰なのかわからない。
「あなたと僕はっ、そのっ、どうしてここにいるんですか?」
「……」
最初、ぽかんとしていた女だったが、しだいに笑みを浮かべると、いきなり甲高い声で笑い出した。
「キャハハハっ、そういう設定ね! 経験豊富なキャバ嬢に筆おろしをされるウブなチェリーボーイってわけだぁ……いいね、面白そう! 男をムリヤリっていうのも興奮するしぃ~」
「やめて下さいっ」
「わっ」
首に巻きついた女の両腕を振り払って、慎はベッドから素早く降りた。慌てて全開になったYシャツのボタンを閉めながら財布を探す。混乱していて状況がうまく飲み込めない。だが胸のあちこちについたキスマークを見れば、どういう状態に陥っていたのかは想像がついた。
「ちょっとぉ、痛いじゃない。なんなのぉ? 童貞プレイするんじゃないわけぇ?」
「僕の荷物はどこですかっ?」
不満げに唇を尖らせた女は不機嫌な息をつくと、テーブルを顎でしゃくった。
「そこにあるけど……ねぇ、一体どうしたの? 僕とか変な敬語とか、マジで怖いんだけどぉ」
慎はテーブルに投げ出された財布とスマホをズボンのポケットに突っ込むと、車のカギごとジャケットを抱え込んだ。できるだけ女を見ないよう視線をそらしながら、口早で問いかけた。
「あのっ、僕はどうしてあなたとここにいるんですか?」
「何言ってるのよぉ、そっちが呼び出したんじゃない」
「僕がっ?」
「電話かけてきたのそっちでしょ。久しぶりに誘ってくれたから嬉しくて、あたし、同伴してたお客すっぽかしてきたんだからぁ」
女の声も遠く感じるほど、慎は愕然となった。
そんな電話をかけた覚えはない。この女も知らない。何より母に再び殺されかけた瞬間から今までの記憶がないのだ。その部分だけがごっそり時系列から抜け落ちている上に、その間、自分は意識的に行動をしている。これが何を意味するのか、既に慎は悟っていた。
「ねぇ、まさかあたしを置いて帰るつもりじゃないでしょうね?」
慎は答えなかった。財布から1万円札を引き抜くと、テーブルの上に置くなりドアに向かう。
「部屋代はここに置きます」
「はっ? えっ、ちょっとぉ!」
ヒステリックに叫ぶ女を背に、慎はドアへ駆け寄ると急いで部屋を出た。長い廊下を走り、エレベーターのボタンを連打する。幸い、エレベーターはすぐに来た。乗り込むと同時にB1ボタンを押すと、機体は地下駐車場に向かってゆっくり降下を始めた。
「……くっ……!」
自然と拳に力がこもる。慎は歯を食いしばって込み上げる悔しさを飲み込んだ。もはや疑いようもない。
やはり、夢遊病は再発していたのだ。
ここ数週間に起こった記憶の喪失は、健忘症ではなかった。
悪夢の再来という現実が重く心に圧し掛かってくる。慎は深い溜息をつくと、到着したエレベーターのドアが開く様をぼんやりと見つめた。冷えた空気が肌を刺す。コンクリートで固められた広い空間は薄暗く、天井に点々と灯るライトの明かりも心許ない。
冷たいセメントに囲まれた暗い地下室は、まるで自分の心の中を映し出しているかのようだった。慎は足取り重くエレベーターから出ると、自分の車を探して亡霊のように薄闇の中を彷徨い歩いた。運転した記憶も、駐車した覚えもない車を探すのは大変だったが、駐車場を2周したところでようやく、消火栓の近くに車を見つけた。
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