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慎は駆け足で車に寄ると、手早くロックを開けた。運転席に乗り込こんだ途端、急に現実感が湧いてきて、それまで鈍かった思考力が自分の犯した罪を突きつけてくる。
また1つ、花梨に秘密を作ってしまった。
あの女性と何をしていたのか―――改めて考えるまでもない事だった。性行為があったかどうかなんて、この際問題ではない。見知らぬ女性とホテルにいた時点でアウトだ。決して自分の本意ではなく、これは夢遊病の症状なんだと訴えても、裏切られた方にしてみれば苦しい言い訳にしか聞こえないだろう。この先どれだけ秘密が増えていくのかと、考えるだけで身の毛がよだつ。
「なんで今頃になって再発なんか……!」
慎はハンドルを握り締めながら、苦しげに呻いた。ようやく病に脅かされない毎日を送れるようになったのに。このままじゃ平穏な日常も花梨も失ってしまう。そうなる前に手を打たないと。
慎はポケットからスマホを取り出した。記憶は母に首を絞められたところで途切れている。まずは、自分があの後どんな行動を取ったのか、きちんと確認する必要がある。
慎は施設に電話をかけた。呼び出し音が数回続いた後で、女性の声が聞こえてきた。施設長に用があると伝えたが、既に退勤したという。代わりに母を担当している看護師が電話に応じた。
『――お母様ならだいぶ落ち着かれましたよ』
母の様子をたずねると、少し関西なまりのある女性看護師は口早に続けた。
『今はお部屋で眠っていらっしゃいますが、しばらくは不安定な状態が続くかもしれません。それにしても、ご無事でよかったです。まさかお母様があんなに興奮されるとは思いもしなくて……でも西園先生が素早く処置して下さったおかげで、お母様もお怪我をせずに済んでホっとしてます』
「僕が処置を……?」
慎は困惑した。首を絞められ、気を失った後のことは何も覚えてないが、それを悟られないよう探りを入れた。
「あ、いや、僕も夢中であまり覚えてないんですが……えっと、日記に記録を残しておきたいので、内容を具体的に教えて頂けますか?」
『そう言われましても……先生がお母様に鎮静剤を打って、ベットに寝かされた後、施設長と今後の治療についてお話しされてましたよね?』
「ああっ、そうでしたねっ」
『お母様も最初の方はあんな感じでしたけど、お薬が効いてからは穏やかでしたよ。もともと、ほがらかな性格の方ですからね。治療は先生と施設長がお話しされていた通りに進めますので、どうぞご安心下さい』
まるで他人の話を聞いているような感覚だった。意識を失った後、眠りの中で覚醒したもう1人の自分は暴れる母に鎮静剤を打ち、適切な対処をした後で、施設長と治療の話までしていたらしい。恐ろしいのはその冷静さだ。睡眠時にだけ姿を現すもう1人の自分は、医師としての知識を使って他人と会話し、社会性をもって行動している。
自我は眠ったままなのに、独立した意識だけが独り歩きをしているという部分が、夢遊病の最も厄介なところだ。
『ではまた何かありましたらお電話下さい』
「はい……母をよろしくお願いします」
看護師が丁寧に通話を辞した後、慎は力なくスマホを助手席に乗せた。天井を見上げて一息つく。この先、自分はどうなるんだろう。漠然とした不安が、ジワジワと足元から這い上がってくる。ふと、慎はさっきの女性の言葉を思い出した。あの女性は"そっちが呼び出した"と言っていた。ならば発信履歴に記録が残っているはず。そう思ってスマホを確認したけれど、履歴にそれらしい記録は残っていない。
女性が嘘をついているのか、それとも自分が別の電話から連絡をいれたのか、今となっては確かめようもないが、こんな事が続けばいずれ花梨との関係は破綻し、自分自身もダメになる。
解決方法は1つだけ。
早急に治療を開始することだ。
プライドなど捨て、患者として主治医に助けを乞う。これが最善の手段であり、唯一の方法だった。
慎はエンジンをかけた。暗い未来に光を射すように、ヘッドライトで前方を照らす。ハンドルを強く握ると、慎はさとすように自分へ語り掛けた。
惑わされるな。眠りの中の自分は、病が作り出す虚像。今の自分が本当の自分なのだ、と。
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