ダブルバインド

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 不審なメールの件は、気になるならとりあえず最寄りの警察署に相談するようにと勧められた。とりあえず、という言葉にガッカリした。警察は本腰を入れて取り組む気配がない。警官は一応会社の上司にこの件を伝えておいて欲しいと頼んでから、再び電話を慎に戻した。 『――花梨さん?』  声の裏に、慎の優しい笑顔が映った。息詰まるような寂しさが胸に込み上げてくる。今すぐ慎の懐に飛び込み、抱きしめたかった。 「先生ごめんなさいっ、私っ、健悟や先生との関係を警察に喋ってしまってっ」 『僕の容疑を晴らそうとしてくれたんですよね?』  わかってるというように、慎がやんわりと弁解を遮った。薄っすら微笑を絡ませながら言う。 『大丈夫ですよ、僕のことは心配しないで』 「けどっ」 『それより花梨さんは自分の事を考えて下さい』  優しいけれど、有無を言わさぬ硬い響きがあった。言葉を浸透させるように数秒の間を置いてから、慎は途切れた話の先を言いつむいだ。 『今日は忙しい日になると思います。松浦さんの件を会社に報告したり、警察の事情聴取に応じたり……紅茶酒イベントのお仕事もあるでしょう? どうか、気をしっかり持って過ごして下さい。ムリはせず、辛くなったら友人や同僚を頼ること。自分は大丈夫と思わずに、ちゃんと助けを求めて下さいね。ご飯を食べてよく眠る……これが花梨さんがすべきことです』  むせ返るような切なさが胸を強く締めつける。自分が警察に暴行容疑をかけられている最中にあっても、慎は常にこちらの身を案じ、労わってくれる。誠実なその愛情はどんな時もブレることなく、愚直な程まっすぐに注がれている。なんて深く、献身的な愛だろう。  花梨は唇を噛み締めて、溢れる涙が慎に伝わらないようにした。泣いたらダメ。余計に心配させる。今の自分にできるのは、元気な姿を見せて慎に安心してもらうこと。そう決意して、花梨は密かに涙を飲み込んだ。 「わかりました。ちゃんと先生の言いつけを守ります」  慎は安心したようだった。柔らかい吐息と共に、穏やかな声がスピーカー越しに伝わってくる。 『じゃ、行ってきますね……そうだ、花梨さん』 「はい?」 『昨夜のことなんですが、2人で夜景を見に行った後……』  そこまで言いかけて、慎はいきなり話をやめた。口にするのをためらうような沈黙を挟んでから、軽く流した。 『いや、何でもありません。また今度にします。それじゃ』 「あっ、先生っ」  花梨は慌てて引き止めたが、既に電話は切れていた。途端に重苦しい静寂が肩に圧しかかってくる。静まり返った部屋でその場に佇みながら、花梨は押し寄せてくる漠然とした不安に震えた。  闇の中からじわじわと、陰鬱な執念が忍び寄っているような気がする。健悟をさらい、慎に警察の疑いをかけ、2人を自分から引き剥がそうとしている得体の知れない"誰か"の吐息をすぐ傍に感じた。  怖くて身がすくんだ。  慎に会いたい。  会いたくてたまらない。  スマホを握ったまま、花梨は天井を見上げて目を閉じた。暗い瞼の奥に慎の笑顔が映る。微笑みかけてくれた優しい笑顔の記憶を切り取り、擦り切れた心の傷口に張って止血する。「大丈夫ですよ」と言った慎の声を思い出し、花梨は必死に心を蝕む不安を削り取った。  2ヶ月前も、同じ恐怖と戦った。自分の位置情報が健悟に筒抜けになっていて、全ての行動が監視されているという恐怖にとうとう心が耐えられなくなり、このままじゃ自分が壊れてしまうと思ったあの時は、頼れる者などなく独りぼっちだった。  でも今は違う。  慎がいてくれる。  ひとりじゃない。  自分は今、とても愛されている。    慎が大丈夫というのだから、きっと何とかなる。悲観的に考えるのはやめよう。警察だってバカじゃないのだ。調べれば、すぐに慎がやったわけじゃないとわかるはず―――崩れそうになる自分にそう語りかけて、花梨はゆっくり目を開けた。  背筋を伸ばし、深呼吸する。手にしたままのスマホから上司の電話番号を呼び出すと、一息ついてから発信した。すぐに上司が出た。昨夜健悟が家に来た後、事件に巻き込まれた件を伝えると、上司はつい先ほど旭川支社の課長から連絡が来て、健悟の事を聞いたという。 『旭川から課長がこっちに向かってるみたいだから、松浦の事は支社に任せよう』  上司はとても落ち着いていた。もちろん健悟の事は心配しているだろうが、籍が旭川支社へ移り今は直属の部下じゃないせいか、少し他人行儀な口振りだった。 『それで、米里は大丈夫なのか? 松浦に何かされてないか?』 「はい、ドア越しに話しただけですから……ご心配をおかけしてすみません」 『いや、いいんだ。考えてみればオレもうっかりしてたよ。昨日、松浦が本社に来てると澤井から聞いてたのに、会議が立て込んで忙しかったから、米里にチョッカイをかける事まで気が回らなかった。すまんな』 「とんでもありません。私の方こそ、ご迷惑をおかけしました」  自然と口から謝罪が漏れた。慎を巻き込み、上司を心配させて、一体自分たちはどれだけ他人を振り回しているのか。改めて考えるとつくづく自分が情けなくなる。 『とにかく、米里は出社しろ。あぁ、松浦が忘れていったカバンを持ってきてくれるか?』 「承知しました……課長、それで健っ……松浦さんが搬送された病院はどこなんですか?」 『北海道病院に運ばれたみたいだ。オレも後で行ってくるよ』  美央を除き、唯一健悟と付き合っていたことを知る上司は、後始末はオレに任せろと言って会話を終わらせた。
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