ダブルバインド

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 花梨は一通り身支度を済ませて、いつもより早く家を出た。学園前駅の入り口から下へ降り、地下鉄に乗り込んで札幌駅に向かう間も、手すりにつかまる手の震えは止まらなかった。  慎はどうなっただろう。無機質な灰色の取調室で、刑事たちに追及されているんだろうか。大勢の前で警察に連れて行かれたことで、クリニックの評判に傷がついたらどうしよう。  慎が、みんなに犯罪者扱いされたらどうしよう。  じくじくと胸が病んだ。左手に持った健悟のカバンがどんよりと重く、奈落の底に引きずり込もうとするかのように腕を引っ張っている。後で会社に警察が来ると上司は言っていた。たぶん健悟との交際について聴取されると思う。気がかりなのは慎のことだった。さっき、慎と交際していることを警官に話してしまい、不用意なその発言が慎の容疑に拍車をかけてしまった。  結局は、何もかも自分が蒔いたトラブルの種が原因だ。  健悟の束縛から解き放たれたい一心で、一方的に別れを告げ、健悟との間に禍根を残してしまったという自覚はあった。とにかく健悟と関わりを断ちたくて、「別れたい」の一点張りで押し切った。その後ろめたさから、あのメールを放置してしまった。健悟の仕業だと思い込んでいたから。  全ては自分の弱さが招いたこと。あの不気味なメールが届いた時に、誤魔化したり逃げたりせず、ちゃんと向き合い対処していれば、こんな事にはならなかった。トラブルの芽をきちんと刈り取らなかったから、伸びた蔓が色んな人に絡みつき、今回の事態に巻き込んだのだ。元を辿れば全て自分の所為……。  今夜は、どんなに強力な睡眠薬を飲んでも眠れそうになかった。人並みに押し流されるようにして札幌駅のホームに降りて、花梨は心が干乾びていくのを感じながら会社に向かった。地上に出ると、辺りは薄暗かった。鉛色の雨雲が覆う空は、今にも泣き出しそうだ。泣けない自分の代わりに、空が泣いてくれようとしているのかもしれない。  本社ビルの1階、ガラス張りのロビーに入り、エレベーターに乗り込こんで6階のオフィスフロアに到着すると、既に上司は出社していた。ちょうど警官が2人来ていて、話していた上司と目が合うなり手招きしてくる。花梨は慌てて歩み寄った。 「上杉課長っ、おはようございますっ」 「おう、米里」  片手をひょいと上げた上司の表情はどこか晴れやかだ。自分の手から離れた部下だと割り切っているのか、真夜中に失踪し、暴行を受けて救急搬送された健悟を心配する気配は、その口振りからもあまり感じられない。 「お疲れさん。ちょうど今、米里のことを話してたところなんだ」 「私のこと……」  上司は警察に何を話したんだろう。メモを取っている小太りの中年警官と、その横にいるゴボウみたいな痩せ型の若い男性警官が、一斉にこちらを見た。冷やかな眼差しには少し棘がある。小太りの警官がメモ帳を開いたままたずねてきた。 「今朝ほど現場の巡査とお話をされた方ですね?」 「そうです」  どうやら今朝のやり取りは警官たちも承知しているらしい。まるで注文を繰り返す店員のように、小太りの警官はメモを読み上げた。 「松浦さんがあなたの部屋に来られたのが午後23時50分頃、その後行方がわからなくなり、今朝ほど円山南2条にあるクリニック前で発見され、打撲外傷を負って救急搬送された。発見者はこのクリニックの医院長・西園慎医師……間違いありませんか?」 「はい。でも松浦さんは私にメールを送ってきた男に襲われてっ」 「松浦さんとは以前交際しておられたんですね?」  あのメールの件を話そうとしたが、まるで聞く耳を持たず警官は一方的に続けた。 「その松浦さんは4月に旭川支社へ転勤。あなたは現在、クリニックに通院されているとのことですが、こちらの医院長である西園さんと現在は交際しておられると」 「へ~、米里、今度は医者と付き合ってるのかぁ」  ギョっとしながら花梨は上司を見た。別に悪い事をしているわけじゃないのに、なぜか後ろめたく感じてしまう。健悟と別れる時、この上司には散々世話になったのだ。それから2ヶ月も経たないうちに次の恋人がいるなんて、呆れられたかもしれない。視線を床へ逃がして、花梨は曖昧に返事した。 「えぇ……はぃ……」 「米里さんに念のためお聞きしますが……」  疲れたように警官は顔を上げると、事務的な口調で言った。 「酔ってあなたの部屋に行った松浦さんの姿を確認されましたか?」 「確認? いえ、してません。怒鳴り声を聞いただけです」 「では、松浦さんと直接顔を合わせてないんですね?」  なぜそんな質問をするのか不思議に思いながらも、花梨は正直に答えた。 「顔も見てないです。ドアは開けませんでした。何をされるかわからなかったので」  中年警官は隣の若い警官を見るや、無言の指示を飛ばした。すぐに若い警官が肩にある無線でボソボソ連絡を入れている。再び、小太りの中年警官が視線を向けてきた。
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