ダブルバインド

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「そうですか。わかりました。我々からは以上です」 「はっ? これで終わりなんですかっ?」  思わず花梨は声を荒げた。警察の事情聴取とはこんなもんなのか。これじゃ今朝の電話の内容を確認しただけだ。どうやら警察は本気で犯人を捜すつもりはないらしい。 「ちょっと待って下さいッ、まさか捜査を終了するんじゃないでしょうねッ!?」  慎を容疑者にしたまま適当に終わらせられちゃ困る。花梨は猛然と問い詰めたが、警官の方はあっけらかんとしたものだった。 「終了しますよ。一応、松浦さんとトラブルになっている人や仕事上の案件がないか、会社へ確認に来ただけですからね。米里さんと破局した後、新しい恋人である西園さんの存在を知り、嫉妬心に駆られて部屋に押しかけ、何らかのトラブルに巻き込まれた……まぁ、よくある事です。先ほどご本人から被害届を出さないとの申し出もありましたから、警察が介入するのはここまでです」 「ご本人ってっ……松浦さんっ、意識が戻ったんですかっ?」 「そのようですよ」  花梨は胸に手を当てながら、心底ホっと息をついた。とりあえず健悟は無事らしい。安堵するのと同時に、もう一つの不安が胸を突いた。弾かれたように顔を上げ、花梨は警官に迫った。 「じゃあ先生はっ? 警察署に行った西園先生はどうなるんですかっ?」 「お帰り頂くことになるかと思います」 「おい米里っ、大丈夫かっ?」  ヘナヘナと花梨はその場に座り込んだ。慌てた上司が支えてくれたけれど、足に力が入らない。もうすぐ慎が釈放される。本当に良かった。 「では我々はこれで。ご協力ありがとうございました」  形式的な挨拶で締めくくると、警官2人は帰って行った。立ち上がるのに手を貸してくれた上司がのんびりと言う。 「さっき旭川の課長から松浦の意識が戻ったと連絡があったんだ。アイツ、何も覚えてないんだとよ。まったく、人騒がせな奴だ。旭川の連中もびっくりしてたよ。優秀で面倒見のいい松浦が、まさかこんなに酒癖の悪い人間だったなんてってさ……米里も大変だったよな」 「……すみません……」 「お前が謝ることない。元々アイツはそういう人間だったんだし、いずれは周囲にもバレたはずだ」  上司は後始末は任せろと言った通り、健悟の件の一切を引き受けてくれた。カバンを引き取り、旭川支社の社員に連絡を入れ、部長に簡単な報告をいれた後、トラブルの後片付けに病院へ向かった。  今日は紅茶酒イベントのポスターが仕上がり、最終確認のためデザイナーと会うことになっている。その後は雑誌社と特集記事の最終調整、食品部と打ち合わせ、店長とメニュー確認と分刻みのスケジュールが続いていた。花梨は淡々と自分の仕事をこなしたが、イベント成功にかける情熱も、意欲も、責任感すら失せたまま、ただただ流されるように業務を消化した。  濃厚な霧が立ち込める広い草原を彷徨っているような虚無感に襲われていた。健悟と別れる直前に感じていた感覚と似ている。今見ている景色から実在感が薄れ、夢と現実の狭間に自分がストンと落ちてしまったような感じだった。出来上がった素晴らしいポスターを見ても、雑誌社の担当者から特集記事の説明を聞かされても、まるで現実味がなく意識がぼんやりしていた。  ようやく午後の仕事が一段落した頃には、11時を少し過ぎていた。警察に行った慎のことが気がかりで、打ち合わせ中もずっと上の空だった。気をもんでもしょうがないと頭でわかっていても、心が落ち着かなかった。  編集者の見送りを美央に任せ、花梨は急いで慎に電話したが、呼び出し音が続くだけだった。まだ警察署に拘束されているのかと不安でたまらず、無駄だとわかっていながらクリニックに連絡したら事務員が出た。  慎のことをたずねたら、とっくに帰ってきているという。事務員は今朝の状況を簡単に説明しながら、すまなそうに言った。 『申し訳ありませんねぇ。普段は患者さん同士が顔を合わせないように30分ずつ間を空けてるんですけど、今日は診療開始が1時間遅れたもんですから、午前中は立て続けに予約の患者さんに対応してるんですよぉ。先生は今も診察中で、私的な電話に出る余裕はないと思いますぅ』  慎の声が聞きたかったけれど、仕方がない。無事に帰宅し、普段通り仕事もしているならそれでいい。 「わかりました。お忙しいところ失礼しました」  花梨は短く詫びた。事務員の話し声に、優雅なピアノのBGMと、慌ただしくパソコンのキーを弾く音が重なっている。忙しい気配が電話越しにも伝わっていた。 『お急ぎのご用件なら私が承りますよ? 後で先生に伝えますけど』 「いえ、結構です」  花梨は丁寧に礼を言って電話を切った。そもそも用件と呼べる程の中身がある話じゃない。単に無事を確かめたかっただけ。慎の仕事の邪魔をしたくない。  昼休憩中に美央から昨夜の件を問われ、事の顛末を全て打ち明けると、少しだけ心が軽くなった。美央は健悟の身勝手さに呆れ返り、自業自得だから放っておけばいいと言ったけれど、上司の背中に隠れたままで幕引きするつもりはなかった。  病巣は、自分の弱い心の中にある。今度こそ決着をつけようと思った。そもそも医療を頼りにすること自体が間違っていた。心の奥底に溜まっている膿は、自らの手で掬い出さなきゃならない。そうすることでカタルシスは成就する。まだ健悟の影に怯えていたあの頃、コンサート帰りに慎がそう言った。
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