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午後には上司も帰ってきて、今回の一件は終了した。病院から帰ってきた上司によれば、健悟は一般病室に移り一晩入院するという。旭川支社の部下と課長に後は任せてきたと上司は言ったが、笑顔でボソっと「安心しろ、アイツが本社に戻ることはもうないから」と耳打ちしてきた。今回の件はあくまでプライベートな事案として扱われているが、警察沙汰になった事に対して上層部はかなりご立腹らしい。
上司からは、新しい恋を仕事の励みにしろと言われた。美央にも似たような励ましを受けた。なのに心に漂う霧が晴れないのは、忍び寄る闇が濃いせいかもしれない。真夜中にふらりと現れ、濃密な闇の奥からじっとこちらを見つめる視線を捉えて、対決しない限りこの悪夢は終わらないのだ。
相手を闇の中から引きずり出すには、健悟の力がいる。もう怖くはなかった。なぜだろう。健悟に対して恐怖心はない。あれほど大事にしてきた体裁に傷がつき、化けの皮を剥がされたナルシストが、この先仲間たちに軽蔑されながら旭川で過ごしていくのかと思うと、気の毒という思いしかなかった。
午後からイベント開催地の直営店に行き、店長やスタッフとミーティングした後、直帰する許可をもらった。4時半にススキノ店を出てから、花梨は徒歩で中島公園に向かった。空は自分の気分を投影しているみたいにどんよりと曇り、パラパラと小雨が降り始めてもいる。足早に地下へ降りると、南北線の車両に乗り込んで真駒内方面へ向かった。健悟が入院している北海道病院は豊平川添いにあり、地下鉄中の島駅から直通のバスが出ている。
花梨が病院に着いた時、ちょうど夕食の時間帯だった。みそ汁の匂いが漂う病棟の廊下を歩きながら、一部屋ずつ丁寧にネームプレートを確認する。上司からは5階の北病棟だと聞いたけれど、とにかく大きな病院で、部屋を見つけるのに廊下を3周してしまった。
看護師に聞いてやっと辿り着いた病室の片隅、6人部屋の窓際に歩み寄ると、花梨はカーテン越しにそっと声をかけた。
「……健悟?」
「花梨っ!?」
薄っぺらいピンク色の布の奥から、待ちわびたような声が聞こえた。遠慮がちにカーテンを開けると、点滴と繋がっている健悟と目があった。病院のメニューが気に入らないのか、キャスター付きのテーブルに置かれた夕食は、手つかずのまま足元に放置されている。
ヘッドボード側を上げて、ベットに背中を預けたまま携帯を手にした健悟の右目の縁と唇の端には、青紫色のアザが痛々しく刻まれている。殴られたんだろう。こんなヒドイこと、あの優しい慎がするわけがない。
「来てくれたのか」
「……うん……」
伏目がちに頷いて、花梨はゆっくりとカーテンを開けた。わざと全開にしたのは、健悟と2人きりの空間を作りたくなかったから。例え布一枚であっても、健悟と一緒に閉じ込められるのが嫌だった。
「ケガの具合、どう?」
傍らの丸椅子に腰を下ろしながら、花梨はざらついた気分で健悟を見上げた。昨日、本社前で見たあの傲慢さはなりを潜め、今は死刑宣告を受けた囚人みたいに沈鬱な表情を浮かべている。
「大丈夫だ。眼球にも骨にも異常はなかったよ」
「そう……ケガが大したことなくて良かった」
「悪かったな。その、なんつーか、迷惑かけて……」
意外にも健悟はしおらしかった。そのおかげか普通に会話が成立している。こんなふうに話をしたのはいつぶりだろうか。付き合う前、先輩と後輩だった時はこうやって自然と会話ができたはずなのに、言葉一つ発するにも健悟の顔色を伺うようになったのはいつからだっただろう。事件がきっかけで正常な関係に戻れたなんて皮肉なものだ。
「正直いって俺、昨夜はスゲェ酔ってて自分がどうしたのか覚えてないんだよ」
困惑しているように視線を揺らしながら、健悟が暗い声で言った。
「お前とあの医者を見送ってからホテルに戻って、武部と居酒屋で飲んで、それから……確か、武部にお前との事を相談したと思う」
「知ってるよ」
「えっ?」
バレてないとでも思っているのか、健悟は驚いた様子だった。慎をヤブ医者と罵ったヤケ酒を、健悟は"相談"と称して自分の醜態を美化している。やっぱりこういう性根は変わってない。花梨はうんざりと返した。
「今朝お巡りさんから聞いたの。旭川支社の若い人が警察に捜索願を出した時に言ったらしいよ、健悟が西園先生のことを許さないとひどく怒って、勢いよく店を出て行ったって。その足で私の部屋に来たんでしょう?」
「……覚えてない……」
健悟は力なく首を振った。
「本当に途中から何も覚えてないんだ。お前の部屋に行く前から記憶がぼやけてる……気づいたら病院にいた」
「私の部屋の前から拉致されたことは?」
「わからない……警官から事情を聞いて俺も驚いてるんだ。覚えてるのは、お前の部屋のドアが見えて、開けてもらえないのが悔しくて、中にあの医者がいるのかと思ったらスゲェ腹が立ったこと。お前の隣は俺の場所なのに、知らない男が居座っているのが納得いかなかった……あの医者、偉そうに俺に説教しやがって、お前を横取りして、それがすげぇムカついて……」
いい加減にしてよと怒鳴りそうになり、花梨は慌てて声を飲み込んだ。ここは病室。大声を出したら他の入院患者の迷惑になる。どんな抗議も健悟には響かないのだ。いつになく暗い目をしているのも、自分の暴挙を後悔しているからではなく、自分の社会的信用が失われたことを嘆いているだけ。半年間の付き合いで、その辺はよくわかっている。
嫌気を胸の底に押し込んで、花梨は冷ややかに告げた。
「健悟が先生を恨むのは勝手だけど、怪我した健悟を介抱して救急車まで手配してくれたのは先生だから。それだけは忘れないで」
「わかってる……」
ムッとした様子だが、威嚇しながら反論せず素直に聞き入れたところを見ると、こんなんでも一応、健悟なりに反省はしているみたいだ。その隙に、花梨は意を決して本題を切り出した。
「実はね、健悟にケガをさせた人に心当たりがあるの」
「え?」
「たぶん、私のストーカーだと思う……」
「ストーカーだって!?」
病室に健悟の緊迫した声が反響した。カーテンの奥から患者たちの動揺する気配を感じたが、今は無視して話をすすめた。
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