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「私がクリニックに通院してからしばらくして、真夜中に変な男からメールが届くようになったの。私が誰と会って、何をしたのか、全部知ってるみたいなんだよね」
「お前っ、それ警察に相談したのかっ?」
花梨は小さな溜息をついて、静かに首を振った。
「してない。どうせ本気で相談に乗ってくれないもん。だからこそ、健悟には被害届を出してもらいたいの」
「なんで俺が?」
「昨夜健悟を襲ったのは、そのメールの送り主だから」
「メール……ひょっとして、会議室でお前が俺に言った迷惑メールのことか?」
責めるような健悟の気配がチクチクと肌を刺してくる。握りしめた拳の中がじっとりと湿ってきた。嫌な汗をかきながらも、花梨は自分の心を落ち着かせた。
「そうだよ。昨日会議室で話したでしょ」
「あぁ、お前怒ってたよなぁ。ストーカーみたいなマネすんな、とか、メールをやめろとか。ふ~ん……そういうことか。俺の仕業と思ってたんだな」
じっと見つめる健悟の暗い瞳に、冷い霜が降りている。ストーカーだと疑われて気分を害したようだ。湿った健悟の眼差しにヒクリと心臓が縮んだが、花梨は逃げなかった。視線をそらさず、淀んだ目を真っ直ぐに見返して決然と述べた。
「健悟がドアの外で暴れてた時にメールが来たの。"俺が片づけてやる"って書いてあった。直後に健悟の声が聞こえなくなって、外に出たらカバンだけが落ちての。警察にもメールをよこした男の仕業だって言ったんだけど、全然とりあってくれなくて……だからお願い、被害届を出して。届が出れば警察も本気で捜査するはず」
「……」
どこか思いつめたように健悟は沈黙している。長い溜息をついた後、暗い顔をしたまま健悟は静かに拒んだ。
「被害届は出さない。この件はもう終わりにする」
「どうして! なんでやられっぱなしにするの!?」
「もういいんだ」
「よくない! 被害届の提出は健悟だけの問題じゃないっ、私にも関係のあることなんだよ!? 届を出してくれなきゃっ、警察は本気でストーカーを探してくれないの! 紙一枚で済む話でしょう!?」
「……」
また沈黙。いつもは自分に歯向かう者には容赦せず、例え相手が正論で責めてきても自分本位な屁理屈でねじ伏せるくせに。仕返しのつもりだろうか。自分を裏切って他の男の元へ行ったのだから、精々ストーカーの影に怯えて暮らせと?
「健悟っ、黙ってないで何とか言ってよ!」
「……」
花梨は奥歯を噛み締めた。なんて意地悪い人なの。往生際の悪い詐欺師みたいに黙りこくっている姿に腹が立った。さすがに我慢できず文句の一つでもぶつけてやろうとした瞬間、
「――違う」
呻くように健悟が呟いた。
「え?」
花梨は聞き返した。真意を探ろうとしたところで、健悟はもう一度同じセリフを口にした。
「違うんだよ」
「違うって何が?」
「俺を襲った奴……それ、ストーカー男じゃねぇよ」
「なんでわかるの? 昨日の事は覚えてないんでしょう?」
「ああ、覚えてない。でもわかる。ストーカーの仕業じゃない」
イライラした。のらりくらりと誤魔化している態度に嫌悪感すら感じる。花梨は身を乗り出して迫った。
「だからっ、どうして言い切れるの!」
「女だったんだよ!」
一瞬、目の前が白くなった。
「……は?」
そんなはずはない。頭の中で誰かがそう叫んでいる。だが健悟の様子は決して嘘をついているようには見えず真剣だった。
「確かに姿は見てない。記憶も曖昧だ。でもな、匂いがしたんだよ」
「匂い……?」
「いきなり背後から腕で首を締め上げられて、気を失う寸前、ふわっと香水の匂いがしたんだ。グレープフルーツにベルガモットが混ざったようなフルーティな匂い……俺、あの匂い嫌いなんだよ。旭川のオフィスに同じ香水をつけてる女子がいるから間違いない、襲ってきたのは女だ」
「ぇ……あ……」
声が震えた。一気に視界が暗くなる。花梨は全身を強張らせた。反論しようにも、言葉にすらならなかった。
何もわからなくなった。
闇の中からこちらを見つめ、真夜中に囁く影は、執念深い男のはずだった。いつ目を付けられたのかも、どうやってアドレスを知られたのかも、何一つわかっていない。けれど、こちらを密やかに監視し、時に心の中さえ見透かすほど異様な愛執を持っているのは、間違いなく男のはずだ。
もちろん確証なんてない。強いていれば勘。文字の奥から漂ってくる狂気には男臭い情欲が滲んでいる。女であれば自然と見え隠れする羨望や嫉妬の気配が微塵も感じられないあのメールを、同性が書いて送りつけているとはとても思えない。メールの送り主は男だ。それだけは断言できる。
「女に襲われたなんて言えるかよっ」
傍で喚く声も遠く感じた。もはや健悟など視界にすら入っていない。頭を満たしているのは闇に灯るブルーライトの明かり。青白い光の中に浮かぶ、男からのメッセージだ。
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