ダブルバインド

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「もし本当に俺を襲ったのがストーカー野郎ならっ、被害届でも何でも出してムショにぶち込んでやるっ。けど相手は女だ! いくら酔ってたとはいえっ、女に襲われて病院送りにされたなんて言えるわけないだろっ」 「……」 「だから警察には何も覚えてないと言ったんだ。実際、殴られたことも、あの医者の家に運ばれた記憶もない。被害届なんて出したらっ、警察が捜査して女にシメられた事が明るみになるっ。そんなマネできるかよっ」  健悟の怒声を聞き流しながら、花梨は答えを求めるように視線を彷徨わせた。健悟を襲ったのが女なら、ストーカーと暴行犯は別人ということになる。でもメールには"俺が片づけてやる"とあった。実際に予告は実行されてもいる。ならばストーカー男と女は共犯? 男が武術に長けた女でも雇ったのか。それとも健悟を狙う女の存在を知り、上手く利用してあたかも自分が手を下すように見せかけたのか……。 「花梨」  ふと思考を弾かれて、花梨は虚ろに健悟を見返した。 「俺は被害届は出さないぞ」  正直、もうどうでもよくなっていた。  花梨は返事もせず、呆然と布団の上のスマホを眺めた。  改めて考えてみると、男の言動は奇怪だ。  自ら相手に恐怖を与えておきながら、自分以外の恐怖からは相手を守ろうとしている。  "逃げてもムダだ"  "ずっと俺のことを考えてるだろ"  "お前の方が俺に執着してるんだ"  "心配するな そいつは俺が片づけてやるよ"   精神的に追い詰めつつ、一方で精神を救済しようとする男の行為は完全に矛盾している。  こちらの言動や行動を把握していると暗に匂わせているが、『会って欲しい』と迫りもせず、『殺す』と脅してもこない。一体何がしたいのか男の要求がまるで見えてこないのだ。それが何より不気味だった。  想像から"執念深いストーカー像"を勝手に作り上げていたが、冷静に考えると、真夜中にメールが送られてくる以外に特別な被害は受けてない。何がどうなっているのか、さっぱりわからなくなった。 「お前もこの件はもう蒸し返さないでくれ」 「……わかった……」  感情のないまま反射的に返事して、花梨は深い溜息をついた。胸の内に渦巻いていた恐怖心は、疑念に変わりつつある。  男の目的は何だろう?   追い詰めたいのか、助けたいのか……  男の考えが全く読めない。 「なぁ、花梨」  ベットの上から呼びかけてくる健悟へ、花梨は疲れた視線を向けた。意識は既に病室を出ている。健悟という存在自体、今や心の中から消えかけていた。 「あのさぁ……」 「なに?」  健悟は何やら言いづらそうに口ごもっていたが、他の患者の目が気になるのか中々語ろうとしない。花梨はバックを肩に引っ掛けた。これ以上ここにいる必要はなかった。話は終わったのだ。  そう、健悟とはこれで終わったのだ。 「じゃあ私、そろそろ行くね。お大事に」  腰を浮かせる寸前、健悟が押し止めるように訴えてきた。 「待ってくれっ……話を聞いて欲しい……」  重たい口振りに嫌な予感はあったが、花梨は渋々椅子に座り直した。深く息をつくと、最後にゴミを拾って帰る気持ちで健悟と向き合った。 「聞くから早く話して」 「うん……あのさぁ……もう一度俺と付き合ってくれないか?」  予感は見事に当たった。呆れて物も言えない、とはこういう時に使う表現だろう。この状況でよく恥ずかしげもなくそんなことを口にできるものだ。花梨はどこまでも自分本位な元彼を、心底うんざりしながら見返した。 「ねぇ、なんの冗談なの?」 「冗談じゃない、本気だ」  だったら尚のこと質が悪い。もう顔を見ているのさえ嫌になって、花梨はテーブルに置きっぱなしの御膳へ視線を逃がした。 「俺がお前を束縛して、嫌な思いをさせたのは認める。本当に悪かった。お前の事が好きで、俺の事だけ見ていて欲しいって想いが強かったんだ。でも身勝手だったよな、反省してる」 「……」 「お前と別れてから、思い知ったよ。やっぱ俺はお前が好きで、諦めきれないんだってこと……だから今度こそ大事にする。これからはお前に干渉しない」 「これから?」  思わず笑ってしまった。健悟は復縁できる余地があると本気で思っているらしい。きょとんとしている憐れな元彼を冷たく見返すと、花梨はわざと大きな溜息をついてみせた。 「私たちに"これから"なんてもうないんだけど。ねぇ、私に新しい恋人がいるの知ってるよね? どうして私が健悟とヨリを戻すと思うわけ? いい加減にしてよ。健悟は本当に何もわかってないんだね、何も見えてない……」  何も見えていないのは、自分も同じだった。健悟の曇った表情も、布団を握りしめている手も、周囲の患者たちが息を飲む気配さえ意識から消えている。一度決壊すると、もう止まらなくなった。花梨は堰を切ったように胸の中の膿を吐き出していた。 「健悟はいつもそう。自分の価値観を人に押しつけて、自分の考えは100%正しいって思ってる。私が好き? ウソだよ。健悟が好きなのは私じゃない。"私のことを好きな自分"が好きなだけ。ねぇ、本当は私がプリン嫌いなの知ってた? 一番の好物が海老チリだって知ってる? 紅茶よりコーヒーが好きなことは? ロングスカートよりタイトなミニスカートを履きたいと思ってることは? バラや蘭が好きなこと、ホラー映画鑑賞が趣味なこと、ボン・ジョヴィのファンなこと、半年一緒にいたけど健悟は知ってた?」  まさか、これ程激しく反抗されるとは予想していなかったらしい。健悟は驚きに満ちた目を揺らしながら、完全に沈黙してしまっている。 「知らないよね。健悟にとってはどれも必要のない情報だもの。最初から私のことなんて知ろうともしなかったくせに、何が好きよ、笑わせないで。先生はちゃんと私の気持ちを聞いてくれたよ。『どんな花が好きですか?』『趣味はありますか?』『好きな物はなんですか?』って、いつも私を知ろうとしてくれる。優しく微笑みかけてくれるっ。大丈夫だよって安心させてくれるっ。自分が警察に連れて行かれる時でさえ私の心配をしてくれるっ。いつだって私を真剣に愛してくれる!」  語尾が震えていた。自分でも気づかないうち、花梨は叫んでいた。 「私は西園先生が好き!」  熱くなった目尻から、涙がポロポロとこぼれ落ちていく。なぜ自分が泣いているのかわからないまま、花梨は憤然と立ち上がった。初めて本心を口にした気がする。驚愕に顔を強張らせている健悟を真っ向から見つめると、半年間の苦しみを叩きつけるように言葉を浴びせた。 「私たちはもう完全に終わってるの! 私とやり直せるなんてバカなこと二度と考えないでッ。私はやり直す気なんて1ミリもないッ。ヨリを戻すぐらいならストーカー男に犯される方が100倍マシ!」  パタパタと病室に足音が近づいてくる。看護師が2人、困惑顔で覗き込んできた。健悟は硬直したまま呆然と見つめているだけだった。何か言いたげに唇は震えているが、漏れているのは動揺した吐息だけ。  健悟は最後まで意地悪だ。あの時も、今も、これで終わりだというのになぜ笑顔で別れさせてくれないんだろう。どうしていつも悲しい気持ちにさせるのか。最後ぐらい穏やかに、笑って別れたいのに。  花梨は涙を拭いもせず廊下に向かうと、周囲の目を無視して病室を後にした。背中に健悟の落胆した気配を感じたが、振り返らなかった。心が晴れないままエレベーターに乗り、1階に降りた。  自動ドアの奥は、雨で景色が濡れている。雨足が強く、飛沫でアスファルトが白く波立っている。外来時間が終わったロビーは閑散としていた。雨音が寂しく反響している。花梨はすさんだ気持ちを引きずりながら、とぼとぼ歩いて外に出た。
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