ダブルバインド

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 自動ドアを通り抜けた瞬間、冷たい雨粒が全身を叩いてくる。激しく吹きつける雨は顔から首へと流れ落ち、下着まで浸透してゆく。だが雨風の冷たさよりも健悟への失望感の方が、ずっと心を冷やしていた。  健悟に何を期待していたんだろう。常に自分優先の彼が、素直に自らの行動を反省し、新しい恋を応援してくれるとでも思っていたのか。  健悟にとってはあの異常な束縛も、ちょっと行き過ぎた愛情表現という認識でしかない。暴力的なまでの過剰愛が相手の心から安息を毟り取り、眠る事さえできない程の深い傷を残したなんて思ってもいない。  健悟にとっては約束をすっぽかした程度の罪悪感しかないのだ。そんなこと、わかりきっていたはずなのに。  それでも心の片隅では微かな望みを抱いていた。ストーカーを捕まえる為なら、協力してくれると信じたかった。自己中でも嫉妬深くても、どんなに歪んだ愛であれ根底には相手を想う慕情が根づいていると思いたかった。  だが、健悟の心に"相手を想う慕情"なんてものはなかった。  風邪を引いた時に看病してくれたのも、残業を手伝ってくれたのも、雑誌で見つけたスイーツを遠くまで買いに行ったのも、全て自分が満足するため。こんなに彼女へ尽す俺は凄いという自己陶酔だ。彼女の意見も好みも知らなくていい。興味がない。感心も。そこに血の通った生身の彼女は存在していないのだ。見栄えする装飾品として自分の隣に飾ってあるだけ。  好きだから、という言葉を使えば何でも許されてると思っている。いかなる行為も"好きだから"許されるべきだという身勝手な言い訳を、悪びれもせず平然と口にする健悟の傲慢さに心底嫌気がさした。一度は止血したはずの傷口から、泥水のように淀んだ感情が心の中に沁み出してくる。息が苦しい。心臓が収縮するたび、ジンジンと腫れぼったい鈍痛が全身を巡る。  無意識のうち、花梨は胸元を握りしめていた。体に叩きつけてくる雨から心を庇うように背を丸め、俯きながらバス停に向かって歩いた。中の島通りに面する停留所に着いた頃には、髪の先からポタポタと雨が滴り流れるぐらい全身びしょ濡れだったが、雨は刻々と激しさを増してゆく。  路側帯に点在する排水溝に、濁流のごとく雨水が流れ込んでいる。街路樹の葉が雨風になぶられ、宙を舞って車道に散ってゆく物寂しげな光景を、花梨はぼんやりと眺めていた。しばらくすると、自宅に通じる路線のバスが見えた。白い飛沫を上げてやって来た車体が目の前で停まる。豪雨の中に佇む憐れな乗客を乗せようとドアが開くも、花梨はその場を動かなかった。  帰宅を拒むように足が動かなかった。早く帰らなければと焦る一方で、慎に会いたいと駄々をこねる自分がいる。乗る気配のない乗客に見切りをつけたバスは、早々にドアを閉めると次の目的地に向かって発車した。  花梨は静かに雨に打たれて次のバスを待った。ようやく円山行きのバスが来たのは12分後。辺りは薄暗く、ゆっくりと夜闇に飲み込まれている。  目的地へ向かうバスに乗り込み、手すりにつかまった時には完全に雨が衣服に染み込み、ぺったり素肌に張り付いていた。湿気で曇る窓ガラスに映る自分の姿は、タクシーの怪談話によく出る濡れた女の地縛霊みたいで、伝い流れる雨水がスカートを通って滴り落ち、足元に薄い水溜まりを作っている。  全身を濡らしたまま幽霊のごとくバスに揺られる女の異様な雰囲気に、乗客達から奇異な視線を向けられても花梨は全く気にしなかった。既に体の芯まで冷え切っていて、全身の震えが止まらない中でも心は不思議と晴れやかだった。  慎に会って、伝えたいことがある。  どうしても直接言いたかった。  今度こそ逃げず、誰の力も借りず、ちゃんと過去と向き合い、堂々と自分の気持ちを健悟に伝えたと。自分の力で完全に過去を清算できたと、慎に報告したかった。  彼はどんな反応をするだろう。優しく微笑んで、「がんばりましたね」と褒めてくれるだろうか。それとも「僕を頼って欲しかったな」と寂しそうな笑顔を見せるのか……。  クリニックのある住宅街が近づいてくるにつれ、心が熱くなってくる。低体温症ギリギリの体は限界を迎え、吊革につかまっている感覚さえないのに、胸の奥は昂揚感で熱を帯びていた。小銭を払う手の震えを見て運転手が声をかけてきたけれど、花梨は答えることなくバスを降りた。再び豪雨が全身を滅多打ちにするも、力強く慎の元に向かって歩き始めた。  民家の明かりが、雨で霞んだ夜の景色に点々と浮かび上がっている。花梨は通い慣れた住宅街の道を一心不乱に進んだ。白い塀の家を曲がると、山の麓添いにオシャレな住宅や個人経営の店が並んでいる。クリニックはこの通りの一番端。やっと辿り着いた頃には診療時間は終わっていて、看板の電気も消えていた。  ただ、自宅の細長い窓を覆うカーテンの隙間からは明かりが漏れている。家主が中にいる確かな証拠だ。逸る気持ちを抑えきれず、花梨は自宅のドアに向かって走っていた。もう、寒さも雨の冷たさも、何も感じない。頭の中は慎の温かい笑顔の記憶でいっぱいだ。
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