◆ 新たな出発

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◆ 新たな出発

 寝室の中は、ぼんやりとした魔法灯に照らされている。 「カズハをお嫁さんにする日を、本当に楽しみにしてたんだ」  リョウメイが慣れた様子で私の上着に手を掛けた。複雑で特殊な結び方をされた紐も難なく解く。何度も誰かの上着を脱がせたのだろうと考えただけで、突き飛ばして逃げたくなる。  白い夜着を着た私を寝台へと横たえて、リョウメイは私に覆いかぶさってきた。キスをしようとするのを手で止めて顔を横に背ける。どうやって時間稼ぎをすればいいのか考えるけどわからない。予定では料理を食べている間に眠ってもらうはずだった。 「……待って……」 「大丈夫、力を……抜いて……」  唐突にリョウメイのまぶたが落ち、体重が全身に掛かって重い。やっと効いてくれたとほっとする。 「これで朝まで目が覚めないっと。……ユーエン! 助けて!」  睡眠薬が効かないのではないかとハラハラした。私の叫び声で寝室に飛び込んできたユーエンが目を丸くして、私に覆いかぶさったまま寝ているリョウメイを横に転がした。 「あー、苦しかった。そういえば皇帝って、毒とか薬に耐性があるものじゃないの?」  ユーエンは事態が理解できていないらしい。お酒に睡眠薬を入れたというと、口を開けて驚いた。 「毒に耐性を付けるには、幼い頃からの訓練が必要です。1年や2年で身に付くものではありませんよ」  幼い頃から少しずつ毒物を摂取して慣らすものだとユーエンが苦笑する。 「私、ここから出る。リョウメイは婚姻の腕輪を受け取ったし、離縁は認められたもの」  リョウメイが私の為に後宮や王宮を壊そうとしているなんていうのは、私の都合の良い幻想だった。リョウメイの行動すべてに理由があると、私が勝手に理想のリョウメイを心の中で作り上げていただけだった。  旅から戻ってきて、いつでも出れるように荷物はまとめていた。リョウメイからもらったものはすべて置いて行く。  浴室で軽く体を洗って着替えて出ると、大きなトランクを持ったユーエンがいた。 「え? ユーエン?」 「はい。私もついて行きます。嫌だと言われてもついて行きます」 「嫌なんて言わない。……ありがとう、ユーエン」  ずるい私はユーエンがそう言ってくれると密かに期待していた。独りで外にでるのは怖かった。  居間のテーブルに、村にいた頃にリョウメイから貰ったハンカチを広げて、〝華蝶の簪〟と初代青月妃の扇をそっと置く。 「……その手巾も置いて行くのですか?」  ユーエンはこのハンカチがリョウメイから贈られたと知っている。生成色の布に素朴な刺繍が施されたハンカチは、初めて町でデートした時に買ってくれた物だ。 「だって、私はリョウメイ――皇帝の月妃じゃなくなったもの」  もう何もいらない。思い出したくない。 「簪も扇も、借りていただけよ。私の物じゃない」  簪の声が懐かしい。あの楽しかった旅の日々を思い出すことができるから、髪に挿していただけだ。扇は身を護る為に持っていた。 「行きましょ」  私は一度も振り向かずに白月宮を後にした。  深夜にも関わらず、王宮の宰相室には灯りが灯っていて、セイランが書類に埋もれていた。 「おや。やっと決めましたか」  忙しく手を動かしながら、ちらりと金茶色の瞳が私を見た。ユーエンがさっと花茶を淹れてセイランに差し出す。あの色は疲労に効くお茶だ。 「やっとってどういうこと?」 「離縁して、後宮から出ていくっていうことですよ。後宮から逃げたいって、顔に書いてましたからね」 「えー。そんなわかりやすい顔……そうかも。リョウメイを置いて行くみたいで迷ってたの」 「良いんじゃないですか? イーミンがいなくなってから他の月妃にも手を付けていますし。貴女が心配することもないでしょう」  イーミンがいなくなった後、順番通りに赤月宮、黄月宮を訪れて、今日は白月宮。明日は黒月宮に行くだろうと言われて、力が抜けた。  「リョウメイを支えるのは私しかいないって、私の単なる思い込みだったのね」 「好意を持つ相手の行動は、過剰に良く見えてしまうものですよ」  自嘲する私を慰めるセイランの声は優しい。  「……会って欲しい人がいるのですが、時間はいかがです?」 「こんな時間に?」  承諾すると私だけが王宮の書物庫へと案内された。暗闇の中、棚の間からちらちらと灯りが見える。 「……誰がいるの?」 「もうすぐわかりますよ」  こそこそと声を落として近づくと、誰かが布を被りながら読書をしているようだ。 「リキョウ様、今日もですか?」 「す、すいませんっ!」  セイランが布を取り払うと、立ち上がって直立するのは白い夜着を着た小さな男の子。金髪に青い瞳のリキョウだった。魔法灯が周囲を明るく照らす。 「一昨日、王宮にお迎え致しました」 「青月妃様、ご挨拶が遅れまして申し訳ありません」   しっかりとした挨拶は出会った時のままだ。昨日も寝所から抜け出して、書庫で本を読みながら眠っていたらしい。 「本が好きなの?」  私の問いにリキョウが青い目を輝かせる。 「はい。想像していた以上にたくさん本があって夢のようです。春には学者様の講義も準備して頂いているので楽しみで仕方ありません」 「本を読みながら寝たら、本が傷むかもしれないわよ? 早く寝て、早く起きて読書の時間にしたらどうかしら?」  そう提案してみるものの、リキョウは自信なさげな顔をする。 「ほら、青月妃様も同じことをおっしゃるでしょう?」  セイランも同じ提案をしていたらしい。畳みかけるようにリキョウに微笑みかける。 「はい。……そうですね。早く寝る努力をします……」  神妙な顔をしているけど、これは中々強情そうな気がする。 「……お願いがあるの」  私は膝を着いて、リキョウと視線を同じ高さにした。 「もし……リョウメイ……今の皇帝陛下が祭祀をしたくないって言ったら、替わりに祭祀を行って欲しいの」 「はい。僕が出来る事なら、何でもします」  青い瞳には、覚悟のような光が宿っている。リキョウは自分が求められている役割を理解しているのだと思う。  セイランと一緒にリキョウを寝室まで送り届け、宰相室へ戻ると男物の服を着たユーエンが待っていた。中華風の生成のシャツにエンジ色の上着、黒いズボンにブーツ。こうして見ると、完全に男性だ。  部屋の中が心なしか片付いていて、セイランが苦笑する。 「今まで、本当にありがとうございました」 「ここに戻ってこなくていいですが、時々は元気かどうか知らせて下さい」  セイランが拱手をして別れを告げるユーエンの背を叩く。 「たまには息抜きに合流しますのでよろしく」  転移魔法で会いに行くとセイランが笑う。来る前に必ず連絡するようにと約束させて、私たちは執務室を出た。  宰相室がある建物の前には大きな馬が繋がれていた。私と色違いのマントのようなコートを着たユーエンが慣れた手つきで荷物を鞍に結んでいる。 「う、馬? ユーエン、馬に乗れるの?」 「乗れますよ。一通りセイランに習いました」 「え、セイランも馬に乗れるんだ。意外ね」  この世界の馬は元の世界の馬よりも大きい。ユーエンの前に乗せられると一気に視界が広がった。初めて馬の背に乗ったのに恐怖は感じなくて、しっかりと腰に回ったユーエンの腕が温かい。  馬は人通りの少ない道を駆け抜けて、帝都を見下ろす丘へとたどり着いた。少し休憩をしたいとお願いして、馬から降りる。 「あー、すっきりした!」  朝日が暗い空を明るく照らしていく。後宮の重い空気から抜け出た爽快感が寒さを凌ぐ。深く息を吸い込むと、冷たい空気が体の中を洗い流していくようだ。 「もうお妃じゃなくなったから、やっと言える。……ユーエン、好きよ」 「……カズハ様……」  後宮の中では言えなかった。というより、言いたくなかった。王宮から外にでて、ユーエンは侍女でなくなったし私はお妃ではなくなった。もう縛られるものは何もない。 「ずっと前から好きだったみたい。気がついちゃダメだって無意識に思ってたんだと思う」  そう言って私が笑うと、ユーエンに抱きしめられた。  キスができそうな距離に胸が高鳴る。ユーエンが美人だからと、いつも自分の気持ちを誤魔化していた。  軽くキスをすると、ユーエンの耳が真っ赤になった。 「あ、あ、あの……カ、カズハさ……」 「様はやめて。もう侍女じゃないんだから、カズハって呼んで」 「……カズハ……愛しています」  ユーエンから始まったキスは、少し長めで深いキスだった。ときめきが止まらない。  そっと唇が離れて、強く強く抱きしめられた。私も強く抱きしめ返す。 「……私だけだって言ってくれる?」  それは私のわがままだとわかっている。ユーエンとリョウメイの二人が好きだった時期もあった。それなのに私はユーエンの唯一であることを求めようとしている。 「はい。私にはカズハだけです。何が起きても一生離しません。……覚悟して下さい」  そっと囁かれた一言が、私の心を満たしていく。ユーエンなら、きっと一生私と一緒に歩いてくれる。広がる安心感は、これまでの信頼の証だと思う。  ユーエンが空を見上げた。つられて見ると青い蝶がひらひらと舞っている。どこかで見覚えのある蝶だと見上げていたら、私の髪に舞い降りて紫水晶の簪に変化した。 「嘘っ!? 戻って来た?」 「そのようですね」  ユーエンが苦笑する。 「もう皇帝のお妃じゃなくなったのに……」  婚姻の腕輪は返したから離縁は成立している筈だ。セイランも認めている。 『……後宮暮らしはつまらぬからな』 「うわっ! ……力が戻ったの?」 『まだ十全ではない。……次の皇帝が妃を娶るまでは少々遊んでいてもいいだろう』  青月妃は皇帝に一人のみ。次の皇帝が青月妃を選ぶまではまだ時間があると簪が笑う。 「ユーエン! これから、どこに行く?」 「カズハの行きたい場所で」 「じゃあ、あの甘いお饅頭が美味しかった町へ!」 『色気の欠片もない女だのう』  朝日が昇る空の中、赤と緑の月が輝いている。  この不思議な世界のことがもっと知りたい。  いろんな景色をユーエンと一緒に見たい。 「行きましょう、カズハ」  微笑むユーエンと一緒なら、きっと怖いものはない。  これから先に何があったとしても、私は前を向いて生きて行く。 
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