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ハレへの街のアスター香水店
「そうそれ、試させて下さらない?」
美しい金色の髪に緑色の瞳の乙女が林檎を齧るイラストの描き込まれたラベル。呼び止められた店員の少年は求めに応じて、玉虫色に輝く小瓶を手に取り蓋を開けると、凝った作りをした蓋の栓ついた馨しい一滴を桃色の小さな紙に擦りつけた。それをそっとご婦人のほっそりした指先に恭しく差し出す。
店の制服であるモスグリーンのズボンに揃いの色のベスト。レモンイエローのシャツを着た華奢な少年はにっこり微笑むと、金の星屑を散りばめたような橙色の瞳を輝かせて説明を始めた。
「この香りの持ち主は当時17歳のΩの乙女です。金髪に緑の瞳をもつ、それはそれは美しい方で、今は遥々この香りを頼りに彼女の元に導かれた、さる王族に嫁がれて幸せに暮らしているそうですよ。先代調香師、メルト・アスターの時代から伝わる、この店の人気商品です。青い林檎を思わせる爽やかさと、最後に残る咲き誇る花々の瑞々しい芳香が特徴です。でも。もしかしたら。お客様にはこちらの香りのほうが、よりしっくりくるかもしれません」
少年はそう耳触りの良い涼やかな声で言いながら、今度は青い小瓶を飴色の飾り棚から出し優美な仕草でその手にとって差し出しながら、目元を半月のようにして微笑んだ。
その屈託ない笑顔に客のご婦人の顔も思わず綻び、色とりどりのボトルを何度も視線を這わせては幸せなため息をほおっとついている。
「ああ、どれもこれも素晴らしくて……。迷ってしまうわ」
「いくらでも、お嬢様のお時間が許す限り、存分にお試しください。この店ではきっと、貴女のお好みの香りを見つけ出すことができますよ。だってここは、国一番の調香師、メルト・アスターの香水店なのですから」
きらきらと輝く小瓶の煌きに負けぬ、少年の愛くるしい笑顔に誘われるまま、女性は新たな香りを手に取ると甘く薫るそれを陶然とした表情でそれを味わった。
ここは国の中央から遥か南に位置する、温暖な海辺の街ハレへにあるアスター香水店。そんじょそこらにありふれた、ただの香水を扱う店ではない。
店の中で最も目立つ飾り棚に煌びやかに並べられた人気画家アルフレッド・ミルの華やかなラベルの付いた商品の数々は、すべて実在する人間、それもバース性がΩの人々の美しくも悩ましいフェロモンを模した香水たちなのだ。
この世界にはアルファ、オメガ、ベータの3種類の人間が存在している。
人口が最も多いのはベータ、逆に希少なのはオメガ。
残る一つのアルファ性はオメガと同じく数は少ないが、優れた能力を有しているものが多く、支配階級に多い。
アルファとオメガは番という婚姻よりもより強固と言われる特有の関係を持ち、アルファが発情中オメガの項を噛むと番が成立する。この国では夫婦関係と同等に扱われている。
オメガには個人差はあるが数カ月に一回ほど、一週間程度続く発情期という期間があり、妊娠可能なその期間にアルファやベータを持つ者にとって抗い難い性フェロモンを放出するため、まず外出することができない。現在では抑制剤というものも開発されつつあるが、大なり小なり副作用を起こす。
現在でも国の中央でもなくば、専門の病院にでも行かない限り精度の良いものを手軽に手に入れることができない。薬局に出回る輸入品もあるが体質ごとに効き目にバラつきがあり、副作用も出やすい。そんな薬ですら未だ国内全ての地域に広く流通していないということもあり、番のいないオメガはこれにより定職につきにくいとされている。
この店を興し、調香師でもあった先代店主メルトは自身の母親が片親のオメガであり、彼女の苦労を目の当たりにして育った。アルファであった彼は長じた後、オメガの社会進出を後押しするため、積極的に香水づくりの現場で彼らを雇ったのだ。
また、香水の原料を作る現場で働くオメガたちから、アルファを誘引する悩ましいくも狂おしい魅惑のフェロモンに着想を得た香水を作り、それが国内外で高く評価された。
なかでもオメガとアルファのドラマチックな関係性に憧れを持つ中央のベータの間でまず爆発的な人気となったのだ。
そしてその人気は香水に自分の運命の番の存在を知らしめられた異国の王が、遥々ハレへまで彼女を探しに来たことで決定的になった。
まるでおとぎ話、世紀のロマンスと清冽な香りを放つその香水とメルト・アスターの名が国の外にまで轟わたるきっかけとなったのだった。
メルトは番を作ると他のオメガのフェロモンを嗅ぎ分ける精度が落ちるだろうと考え、思い悩みつつも敢えて愛する妻を番とせずに半生を生きてきた。
四十を過ぎてから妻との間に授かった一人息子が店を継ぎ、のちにオメガを保護する領主の館で育てられていた、親のないオメガの少年を養子とした。
二人は今、本当の兄弟のように仲睦まじく香水店を切り盛りしている。
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