【5】死者の願い

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【5】死者の願い

 日が暮れて、再び月が昇る時間がやって来た。  祠から姿を現した黒朱鷺は、今宵も待ち構えていたイアフメスに目を留めて、うんざりしたような表情を作った。  『まだ、いるのか。』  「仕方ないだろ、あんた以外に話す相手もいないんだから。」 イフアメスは、肩をすくめる。  「誰も気が付いてくれないんだ。それどころか、家鴨が怯えて、子猫が逃げる。家の牛にまで避けられる始末だよ」  『正常な反応だ、悪霊になりかけている死者に対する反応としては。』  「誰が悪霊だ。俺は、まだ――」  『いずれそうなる。』 黒朱鷺は断言し、時刻を違えず正確に姿を現した丸い月のほうに嘴をしゃくった。  『月の舟は、そう長くは待ってくれない。魂の再生が認められるのは、死から七十日、と定められている。それを過ぎれば、舟に乗る資格を失い、お前は行くべき道を見失うだろう。』  「詳しいんだな、鳥のくせに」  『これでも我は知恵神の眷属ということになっている。それに、既に一度は死んでいる身だ。』 嘴を傾け、まるで人間のようにちょいと首を振ると、鳥は飛び立とうとする。イアフメスは、慌てて手を伸ばした。  「待てよ。」 掴めるとは思っていなかった。だが、まさか感触があるとは思ってもいなかった。微かに触れた手がぴりっと痺れ、彼は思わず手を引っ込めた。触れられた朱鷺のほうも、ぎょっとした様子で空中で僅かに態勢を崩す。瞳の赤い縁取りが一瞬、かっと炎のように燃えたち、イアフメスは射すくめられて動けなくなった。だがそれも一瞬のことだ。  『…人間風情が』 吐き捨てるように言うと、朱鷺はいきなりイアスメスの首筋を引っ掴み――正確には嘴で引っ掛けて――乱暴に引き上げた。足が地面を離れ、次の瞬間、彼は空に浮かび上がっている。  「うわ、ちょっ、おい!」 (やしろ)の敷地がぐんぐん眼下に遠ざかり、川縁にそよぐ木々が、村に続く道が、きらめく川が、川の中のにある沢山の小さな中洲が、それらすべてが足元の、日暮れの闇の中に溶けてゆく。  飛んでいるのだ。振り落とされるかもしれない恐怖など、頭から飛んでいた。何しろすでに死んでいるのだから、これ以上、もう死ぬことはない。  「…綺麗だな」 思わず呟いた、場違いなイアフメスの言葉に、朱鷺は僅かに羽ばたきを緩めた。  『ちっぽけな世界。実にちっぽけだろう? あれがお前たちの世界だ。お前たちが生まれて死んでゆく場所だ』  「何処へ連れて行くつもりだ」  『何処へも行かん。じきに月の舟がここを通る。そうしたら、お前を押し込んで旅立たせるまでのこと』 黒朱鷺は、村の上空の、遥か彼方に留まっていた。  そこからは川の対岸も、東の地平線もはっきりと見える。南のはるかな河の上流も、北に広がるとてつもなく広い、どこまでも続く海の果ても。その世界を、細い月は銀色にきらめきながら、ゆっくりと櫂を漕ぎ、定められた航路を一定の速度で進んでくる。  「なあ、あんたは何故、夜に飛ぶんだ」  『黒朱鷺は月神トートの眷属だからだ。昼の光は眩しすぎる。我の時間は夜なのだ』  「月神? トートは知恵の神様じゃなかったのか? 確か、文字を書く人たちの守護神だろう」 黒朱鷺は、憐れむような目をして嘴の先にひっかけた人間を眺めた。  『お前は本当に無知なのだな。大抵の神は昼か夜か、どちらかの時間に属している。トートは知恵の神にして死者の魂の法廷に立つもの、神々の治世を記すもので、夜に属しているのだ。そして時を司る月の神でもある。かつて大地と空の子供たちが生まれる時、月と賭けをして、一年の終わりに五日間を付け足した者だ。』  「へええ」 そういった類の話には、馴染みがなかった。大昔に祖父から聞いたかもしれないが今は記憶に残っていなない。村には神官も、語り部もいなかった。少しは学と呼べるものがあったのは、若い頃に大きな町で出稼ぎをしていたことのある祖父くらいのものだった。  「そういえば、あんたの嘴はまるで三日月のようだな。きっと、それで月の神なんて言われるようになったんだろう」  『なにを、ふざけたことを。』  「でも、昔は昼の空を飛んでたんだろう? その姿になる前には。その、ただの鳥だった頃には」  『……。』 僅かに、朱鷺の気配が淀んだ。鳥だけに表情は判らないが、おそらく、何か不快なことに触れてしまったのだ。  『昼の空は、飛んだことがない』  「えっ?」  『”ただの鳥”だったことは、一度もない。我は知恵の神の祀られた神殿の聖池で生まれた。だから一度も、昼の空を飛んだことなど』 滑るように夜の中を、星々を従えて、月の舟が近付いてくる。舟の周りに生まれる目には見えない波が、今はもう、はっきりと感じられる。漕手の居ない銀の櫂が動き、風を孕んだ帆が大きく広がっている。  その中にぎっしりと詰まった乗客を見て、イアフメスはぞっとした。全て、死者の魂なのだ。今日の乗客は、ほとんどが戦で死んだ兵士たちのようだった。真っ白に小さくうずくまり、生気のない虚ろな目をあらぬ方向へ向けている傷ついて手や脚のないもの、切り落とされた自らの首を膝に抱えている者もいる。そして彼らの周囲には、銀色の光に包まれた、形のない、夜と死者の守護神たちが揺らめいていた。  「嫌だ…!」 イアフメスは、絞りだすように叫んで身体をゆすった。あんな不気味な乗客に混じるのは御免だ。  「行きたくない。まだ、あの舟には乗れない」  『諦めろ。今行かねば、お前は永遠に彷徨うことになるぞ』  「でも、まだ時間はあるんだろう?」 身体をよじり、黒朱鷺の毛のない首を、頭を見上げる。赤い瞳は無表情に、夜空を間近に近づいてくる月の舟を見つめている。   「お願いだ」 黒朱鷺の気配が、かすかに揺らいだ。  「もう少しだけでいい。俺だって悪霊になんてなりたくない。もう少しだけ、あそこに居たいだけなんだ。弟の側に」  『……。』 舟はもう、目の前だ。ほんの少しも速度を緩めずに、近づいてきて、すぐ側を通りすぎてゆく。(さざなみ)が足を撫でた。舳先に立つ形のない人影が、苛立ったように怒鳴った。  「乗るのか?乗らないのか!」  『今日は…まだだ』 不機嫌そうに応えて、鳥は翼を広げ、嘴の先にイアフメスをぶら下げたまま夜空を旋回した。そうして、過ぎてゆく舟を後に、静かにまた元の祠の前に向かって舞い降りて行った。  嘴から振り落とされ、地面に足がついてもまだ、イアフメスは自分が村に立っていることが信じられなかった。半透明で、感覚もない両の手を見下ろし、それから、祠の上にとまっている黒朱鷺を見上げる。  「…何故」  『また、何故、か。何故、何故、お前は何でも問いたがる、子供のように。なんという無知蒙昧』 ため息をつき、首を振り、神経質そうに長い脚で祠の屋根を叩きながら、黒朱鷺はぐっと首を逸らした。  『我はこの地の守護霊として存在を定義され、縛り付けられている。故に、この地に住む者の願いを聞く義務を課せられている。拒否権はない。役割上な! さっさと悪霊と化してしまえばいい。そうすればこんな面倒な義務の範疇から外れてくれるのだ。』  「…あんたの言葉は難しすぎて、よく分からないよ」 イアフメスは、眉を寄せた。  「だけど要するに、村人の”願い事”は断れない、ってこと?」  『ああそうだ、厄介なことにな』 憮然とした表情で、朱鷺は足を止めた。  『だが、出来ないことを望まれても出来ぬと答えるだけだ。我は守護霊程度の存在(もの)でしかない。そしてこの地の守護霊という職務の範疇でしか願いを叶えられない。出来ることなど、たかが知れている。そう、たとえば、ぼんやりしている男の額を突いて注意をうながすこととか』 朧気に、この鳥のしたことが思い出されてきた。一度目も、二度目も、イアフメスは弟を”救ってくれ”と願ったのだ。だから応えた。  「あんたは、――俺の願いを叶えてくれてたのか」  『勘違いするなよ。それも、お前が単なる死者だからだ。悪霊になったら追い払うまで。』  「死者であるうちは、拒否権は無いんだろ?」  『……。』  「なら、俺が心置きなく逝けるように、ちょっとだけ手伝ってくれよ。最期に、弟と話がしたいんだ。頼むよ」 意地悪なことを頼んでいると思いながらも、イアフメスは必死だった。頼れるのはもう、この守護神らしき存在だけなのだ。  黒朱鷺は、イアフメスの真剣な表情を見て、ため息をつくように首を傾げた。  『――よかろう。それで、お前に煩わされることなく、ここが静かになるというのならな…』  月が天頂へ登り切る少し前、あらゆる生き物が深く眠りに落ちる時刻だった。  灯りは一つ残らず消え、村は静まり返っている。イアフメスと黒朱鷺は、音もなく目指す家の戸口に降り立っていた。そっと窓から覗きこむと、一段高くなった床で背を丸め、寝入っている弟の姿が見えた。  『言っておくが、夜明けまでだ。それも相手が途中で目覚めたらおしまい。死者が夢枕に立てるのは一度きりだ、分かったな』 イアフメスが頷くと、鳥は、長い嘴の先をそっと少年の額に当てた。銀色の光が染みこんで、ふいに身体が軽くなる。うっすらとした光に包まれながら、イアフメスはおっかなびっくり窓に触れた。と、意外なほど簡単に、窓をすり抜けていた。  次の瞬間、死んでからは決して入ることの出来なかった生者の領域、家族で住んでいた家の中に、彼は立っていた。  懐かしい空気。嗅ぎ慣れた匂い。  昼間焼いたパンの香りが、まだ台所に満ちている。川縁で摘んできた青々とした草、壁にかけられた義母のお手製の刺繍入りの布。けれど今は、それらを懐かしんでいる時間はない。イアフメスは弟の傍らにしゃがみこんで、教えられた通り、眠っている額に手を当てて、軽く揺さぶった。  最初は、なんの反応もなかった。だが何度か名前を呼ぶうちに、ラーメスの輪郭が薄ぼんやりと目を開いて、身体から起き上がった。それは霊なのだと、あの黒朱鷺は言っていた。霊と話をするには、話す側も霊の姿にならねばならない。だがそれには危険を伴う。あまり長く生者の身体から霊を引き出すことは許されない。だから許されるのは一度きりで、それも、わずかな時間だけなのだった。  「ラーメス、ラーメス、俺がわかるか?」  「…イアフメス?」  「そうだよ。ようやく話せる」 イアフメスは嬉しくなった。この何日か、どんなに話しかけても誰も答えてくれないことが、どれほど寂しかったか。  「どうしてここに、どうやって?」  「ああ、話せば長いんだけど、…その」 イアフメスは、頬をかいてちらと窓の外に視線をやる。  「村外れの祠に祀られてる聖体――黒朱鷺の神様に、頼み込んだんだ」  「祠? 聖体? お祖父さんが持って帰ってきた、あれこと?」  「ああ、ま、その話は置いといてだ。話したいことがあるんだ」 再会に喜んだのもつかの間、ラーメスの表情は、すぐに曇ってしまった。  「…ごめん、兄さんの身体のこと。父さんにお願いしたんだけど、どうしても聞いてもらえなくて」  「塩漬けのことか? そんなのは気にしちゃいないよ。生きてるお前たちのほうが大事だろ。それより、手間かけさせてすまなかったな」  「手間だなんて、…」 ラーメスがはや涙を拭い始めたのを見て、イアフメスは思わず苦笑した。  「泣くなよ。また鰐が近くにいるのに気が付かずに食われかけるぞ。お前がそんなだから、俺も安心して逝けないんだ」  「ごめん」  「謝る必要なんてないんだ。死んじまった俺が悪いんだ。舟を出そうって言ったのは俺だし、そのせいで、お前まで酷い目に遭わせた。みんな俺のせいだ」  「……。」 何故だか、ラーメスの表情は益々重くなった。長い沈黙のあと、ラーメスは、重たい口を開いて言った。  「…ノジュメトは、そう思ってくれないよ。」  「ノジュメト?」 どうしてここで、妹の名が出てくるのだろう。そういえば、昼間見たノジュメトとの、あの、奇妙によそよそしい様子も気になっていた。  「お前、ここのところずっと様子が変だったよな。今日だって、墓場で話していたとき他人行儀で――」 ラーメスの表情が、さっと赤くなった。  「見てたのか!」  「…ごめん」 思いがけず激しい口調に、イアフメスは戸惑いながら落ち着かなさげに視線を彷徨わせた。  「すぐ近くにいたんだ、けど、気づいて貰えなくて――。」  「…こっちこそ、ごめん。そうだよね」 声は急激に力を失い、ラーメスは、また背を丸めて自分の体の側に小さくなった。そうしていると、まるで月の舟に乗っていた死者の霊のようだ。  「どうしたんだ。ノジュメトと何かあったのか? 最近元気がなくて、心配してたんだぞ。なあ、いい加減、話せよ。何をそんなに気にしているんだ。」 問うても、ラーメスは小刻みに肩を震わせているばかり。  「話してくれ。」 時間がない。夏の日は気が早く、足早に地下世界を通り過ぎ、東の地平線へ向かって進み続けている。  「俺はもう、これで最期なんだ、お前と話せるのは。それでも言えないのか? そんなに、言いたくないことなのか。」  「……。」 ラーメスは、濡れそぼった睫毛を上げて、涙を堪えながら言った。  「…ノジュメトは、兄さんのことが好きなんだ。」  「は?」 予想だにしなかった言葉に、イアフメスは自分でも間が抜けていると思う声を発していた。  「ノジュメトが…何だって?」  「気づいてなかったんだよな。やっぱり。もうずっと、兄さんのことを想ってたんだよ、あの子は。――」 その手のことには鈍いイアフメスにも、だんだん事情が飲み込めてきた。ここのところ、何故か塞ぎこんで家族と距離を置いていた理由。急によそよそしくなったノジュメトとの関係。目の前で背を縮こまらせている弟の表情、そして、自分の死…。  「まさか、お前は――お前のほうは、ノジュメトのことが好き、なのか?」 わっ、とラーメスが泣きだした。正確には、泣いているように両手で顔を覆って蹲った。呼応するように、側にある肉体のほうも苦しそうに顔を歪める。  イアフメスは、呆然としたままだった。  「そんな…そんなこと、全然、気づきもしなかったぞ。どうして早く言わなかったんだ」  「言ったらどうにかなってた? 兄さんに、ノジュメトの気持ちをどうにかしてやれるなんて出来たはずがない」  「それは…。」  「よりにもよって、兄さんが死んで、僕が生き残るなんて。あんな死に方をするなんて…」 肩を震わせ、ラーメスは言葉を絞り出した。  「ノジュメトは、きっと、僕が兄さんを殺したと思ってる…」  「違う、そんなこと誰も思ってない。あれは事故だ」 鰐に向かって手斧を投げつけようとしたとき舟が転覆して投げ出され、手から飛んだ斧の上に身体が落ちたから。そのことは、先に目覚めた自分のほうがよく知っている。  『時間だ』 窓の外で、おごそかな黒朱鷺の声がした。空が白みかけている。もう、行かなくては。  「お前のせいじゃない」 立ち去りながら、イアフメスはもう一度繰り返した。  「お前は生きろ。俺の分まで、そうじゃないと俺は…。」 夜が去り、朝が巡ってくる。家の外に追い出されたイアフメスは、恨めしそうに早すぎる太陽の訪れを見つめた。川縁の木々は長い影を引きずっているが、イアフメスと鳥の足元には、影は形も見えなかった。  『満足したか? していないのだろうな』 黒朱鷺は、うんざりしたようにイアフメスの暗い表情を眺めた。  『この世に未練を残した霊など、皆そんなものだ。もう一度だけ、と愛する者に会いに行っては、新たな心残りを抱えて戻ってくるのだ。だが最初に言ったとおり、生者と会話を交わすのは、これが最後だ。これ以上話をしようとすれば、あの者の命を縮めることになる』  「分かってる」 イアフメスは、唇を噛み締めた。弟の魂を危険に晒す訳にはいかない。それに、もう、死んでしまった自分に出来ることは何もない。  生きていた頃の自分は、何も知らなかった。腹が立つほど鈍感で、愚かで、惨めな自分。ずっと一つ屋根の下で暮らしていながら、妹の眼差しに、弟の抱いている気持ちに、何一つ気づかないほどに。  ああ、もしあの時、少しでも察していたのなら。無遠慮にラーメスから無理に聞き出そうとしたりしなければ、つまらない兄弟げんかなどせず鰐に接近していることに気づいていれば。  けれど後悔など、死んでからではもう遅すぎる。時は戻せない。失われた命もまた、もう二度と、元の場所へは還れない。
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