【1】困惑の目覚め

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【1】困惑の目覚め

 どれくらい、意識を失っていたのだろう。イアフメスが気がついたとき、辺りはすっかり闇に沈んでいた。  星も月も見えない。風もない。今いる場所がどこかも判らない。ただ、嗅ぎ慣れた、乾いた茅の匂いだけが辺りに満ちている。この匂いからして、多分、村のどこかのはずだった。けれど、意識を失う直前のことが思い出せなかった。  固くこわばった四肢を伸ばしながら、彼は、一体何があったのかを思い出そうとしていた。確か、川べりに居たはずなのだ。そう、川べりで弟のラーメスと一緒に、小舟に乗って――  淀んだ空気が揺れ動いたのは、その時だった。  『…迷惑なのだがな』  「えっ?」 ほとんど耳元から響いて来た聞き覚えのない声に、イアフメスは慌てて辺りを見回した。暗闇に少しずつ目が慣れてくるとともに、窓のない、のっぺりとした泥塗りの壁が見え始めた。川の泥を型に嵌め、日に干して作った煉瓦を積み上げて、その表面に泥を塗った簡素な造りの壁だ。  けれど、この建物はしばらく手入れされていないらしく、壁の表面はひび割れて、所々、下地のれんがが浮き上がって見えている。足元の石の隙間には、どこからか入り込んだコウモリの糞がべったりと張り付いて、蜘蛛の巣の切れ端が、空間の中心にある小さな塊に引っかかり、白く埃をかぶっていた。  その塊は、素焼きの壷のようだった。ただの壷ではない。細長い、円錐に近い形をして、粘土で固く蓋が為されている。  「何だ、…これ?」 手を伸ばしかけて、彼ははっとした。  これは、聖体だ。  ほっそりと伸びた陶器の蓋には、黒い墨で祈りの文句らしきものが書かれている。大きな街の神殿に行くと、よく、こうした聖体が売られているものだ。神の眷属である聖なる動物を乾燥させ、包帯を巻いて壷や容器に収めたもの。この形は、おそらく、鳥の聖体だ。  『そう、それが我だ』 迷惑そうな声は、もう一度繰り返した。  イアフメスは怪訝そうに顔を上げ、そして、声にならない悲鳴を上げて後ずさった。  そこには薄ぼんやりとした一羽の朱鷺の亡霊が、嘴をやや傾け、翼を閉じたまま、暗闇の中に浮かんでいた。いま喋っていたのがそれだとは、にわかには信じがたかった。  「今の声は、あんた…なのか? 朱鷺の幽霊なんて初めて見たぞ」  『他に誰が居る』 トキの嘴がわずかに開いて見えたと同時に、澄んだ高い声が聞こえてきた。  『ここは我の(やしろ)だ。お前は勝手に付いてきた。そうして、もう二晩もそこで呆けていたのだ。とっとと出て行ってくれ』  「社、って…。」 イアフメスは、眉を寄せながら辺りを見回した。  「ついてきた? 俺が幽霊に?」  『幽霊などではない。フン、…我が何者かも分からぬか。愚か者が。己の村の守護神を忘れたか?』  「守護神…」 しばらく考えこんだのち、彼はようやく思い出す。  この村、――”緑の茅の村”の守り神は、朱鷺だったのだと。  村が出来たのは、そう昔のことではない。  もう何年も前から、東の国境は異国の侵略に脅かされっぱなしだった。だからこの村は、治安の悪い場所を逃れて何度も場所を変え、川の下流の湿地帯を点々としてきたのだ。村の主な生業は茅の刈り入れと紙づくりで、だから、畑にこだわらず茅の生える場所なら何処へでも移住できた。  茅は、紙の材料だった。紙を作るのには、中洲に生える(メヒイト)の茎が欠かせない。  村人の大半はその貴重な紙づくりの仕事に携わり、新芽の出る春から成長期の夏にかけて茅の刈り入れをしては紙を作り、毎年、定められた量を王都ザウからやって来る役人に差し出していた。紙は高級品で、生産と流通は全て王家の監視下にあった。  三角の硬い茎を薄くへいで叩いて伸ばして作られる紙は、一括して王家に買い上げられ、必要な分を王家と神殿がとり、残りは市場へ流される。そうして一般人の手に入るようになった最も質の悪いものでさえ、市場では目の玉が飛び出るような価値で取引されるのだという。  ”王家の草(パ・ペル・アア)”。 村の周囲の中洲にたくさん生えている緑の茅がそう呼ばれるのは、乱獲を禁じられ、王家に刈り取る量を管理された特別な草だからだ。  紙づくりのための工房は、村の中ほどにある。  男たちは川へ出かけて茅の茎を刈り取って運び、女たちが水にさらして灰汁をとり、皮を剥ぐ。それを熟練した職人たちが薄くへいで貼り合わせ、均等に繊維を叩き潰して紙にする。完全に乾くまで工房の中で陰干しにすれば、丸めて筒状にして持ち運べる一枚の長い紙になる。  この仕事に関わっていない幼い子どもや母親たちは、川縁の畑で少しばかりの野菜を作り、縫い物をし、家畜の世話をする。それ以外の生活に必要な物は、王家の役人が紙と引き換えに置いてゆく代金代わりの麦や織物などを、近隣の村に持ち込んで交換してもらうのだ。  単純だが、飢えることのない暮らし。  しかも、紙作りに必要な人手だからとて、この村の若者たちは一度も徴兵や強制労働に取られたことはなかった。  隣村の若者たちが、異国兵の侵入を防ぐための防塁づくりや見張りの任務に駆り出された時も、イアフメスは川べりで茅を刈り取っていた。  とはいえ、こちらも楽な仕事ではない。草の汁が触れると肌が荒れるし、川には毒蛇や恐ろしい鰐もいる。一日中、自分よりも背の高い茅に囲まれてその茎を刈っていると、肩や腰が酷く痛む。おまけに近頃では、川の対岸の陽の昇る方角から攻め入ろうと企んでいる異国の兵士たちが、夜陰に紛れて中洲に潜んでいるという噂もあった。  まもなく戦争が始まるのではないかと、旅の行商人が言うのを聞いたことが在る。父は難しい顔で、ただ頷いているだけだった。  最後にこの辺りで戦争が起きたのは、イアフメスが生まれる前だった。今の場所に村が出来たのも、その頃だ。  その時も異国人が攻めて来て、ずっと西の方の都にいる王様が軍を率いて敵を蹴散らしていったのだ。その王様はもう死んで、今はまた、別の王様になってる、と聞く。けれど村人たちにとっては、誰が王様だろうと関係なかった。自分たちの作る紙と引き換えに、日々の糧を置いて行ってくれる役人さえいれば、それだけで良かった。  毎日、日が昇って、また沈む。季節がめぐり、一年、また一年と過ぎてゆく。  異国人のことも、世の中の大勢も、都で起きている出来事も、何も知らない。知る必要が無いからだ。  それが、この村での生活だった。  ――そう、思い出した。  朱鷺の聖体は、この村が今の場所に出来た頃に、何も守護神が居ないのでは縁起が悪いからと、イアフメスの祖父が、川の下流のずっと西の方にある聖地、「朱鷺の街(ジェフウト)」で買って、持ち帰ってきたものなのだ。今は亡き祖父はこの村では珍しく、紙づくりより軍事に興味があり、若い頃には、異国人の傭兵たちに混じって兵役についていた。確か、祖父の友人だった異国人の傭兵は、その街を、自分たちの言葉で、知恵の神の街(ヘルモポリス)と呼んでいた。  けれど、…正直に言えば、村に朱鷺の聖体を収めた祠があることさえ、今の今まで忘れていた。  最後にここに来たのは何時だっただろう。祖父が亡くなってからこの十年近く、もうずっと、お供えも、お参りもしていなかったと思う。  渡り鳥である朱鷺は、確かに、この村の辺りでもよく見かけられる。けれどこの村では、知恵の神の眷属であり「神々の書記」とも呼ばれる朱鷺に祈る用事が、ほとんど無いのだ。  何しろ村人の誰も、村で作られる紙が、どこでどのように使われるのかを具体的に知らない。ましてや文字など、一文字だって理解できる者はいない。祈る機会のない神は、自然、忘れ去られてゆくものだ。祈る用事がある時、人々は、出産の女神や毒蛇避けの女神、子供の健康の守り神など、めいめいの家庭に祀った神棚に向かう。  だから、この祠はこんなにみすぼらしく、蜘蛛の巣まで張っているのだ――。  でも、どうして、その祠の中に自分がいるのだろう?  「…帰らないと」 イアフメスは、暗い中で壁に手を這わせながら立ち上がる。本当に二晩もここにいたのなら、きっと弟のラーメスは心配している。なぜ朱鷺が喋っているのか、など考えるのは、後回しだ。  黒朱鷺は無言に、イアフメスが出口を探しているのを見つめていた。余計な説明をして時間をかけるつもりはなかった。言葉より、実際の体験のほうが遥かに雄弁で有能な教師となる。今の彼には、何を説明しても無駄だと分かっていたのだ。自分で知る必要があるのだと。  「ああ、ここだ」 固く閉ざされた湿気で歪んで立て付けの悪くなった扉をようやく探り当て、扉を開こうと手を押し当てたとき、イアフメスは、ようやく気が付いた。  扉に触れた手が透けて、通り抜けてゆく。  驚いて手を扉から離した拍子に、肩が扉に触れた。まるで薄い布でも押しのけるかのように、するりと、彼の体は外へ転がり落ちる。  外は既に昼になっていて、明るい陽射しが頭上から注いでいる。その光の中、体は透けて、半透明で、――光は、まるで彼などそこにいないかのように、影を作らずに地面に届いている。  目の前には、見慣れた村の風景が、昼の世界が広がっている。  真夏の太陽の光がさんさんと降り注ぐ眩いばかりの白の世界。目の前の川縁にそよぐ、まだ熟れきっていない実をつけたナツメヤシの木々の麓には黒々とした濃い影が、実在の証明のように落ちている。この世界の中で、影を持たないのはイアフメスだけだ。  呆然としているイアフメスの後ろから、朱鷺の声が響いて来た。  「そう、お前は今、そこにいない」 振り返り、蒼白な顔を向ける少年に向かって、扉の奥の黒朱鷺の影は、静かに、そして残酷なまでに断固とした口調ではっきりと告げた。  「お前は死んだのだ、人間。そして今、魂はまだこの世にとどまっている。帰るべき場所は、生きていた頃のそこではない。死者の世界――冥界(ドゥアト)だ。」 目眩がした。  額に手を――存在しないはずのそれを当て、祠のそばにへたり込む。  自分が、死んでいる?  一体、なぜ?  呆然としている彼の記憶の中から、ゆっくりと、最期の瞬間が蘇って来る。そうだった。あの時、イアフメスは弟のラーメスと一緒に小舟を漕ぎだしていた。そして、緑間中洲に近付いたとき、そこで、不慮の事故に遭遇したのだった。
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